作成者別アーカイブ: 白坂慎太郎

思い通りにいかない時に

 

白坂です、

 

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さて、

 

思い通りにいかない時に

 

 

 

結論から言うと、

 

 

【思い通りにいかない時にこそ器が広がります】

 

 

人は思い通りにいかない時にイライラします。

 

基本、自分の頭の中で自分なりの計画があり、「この後は、こうやって、こうやって、、、こうすれば上手くいくだろうな」という予定があります。イライラするというのは、その自分なりの計画が崩されているからです。自分の予定通りに行かなくなりつつある現実を、自分の思い通りの方向へと戻すための行動を取るための原動力が、イライラという感情です。

 

 

・自分の頭の中には、自分なりの計画がある

・目の前の現実は、自分の想定通りに行っていない

・想定通りに行っていない現実を、想定通りの方向に戻すための行動が必要

・その行動を生み出そうとするための感情がイライラ

 

 

イライラするというのは、それ以前に、計画を立てたりなど事前準備をしていたからです。だから、必ずしもイライラという感情そのものが悪いわけではありません。そのイライラという感情があるからこそ、途中でいろいろな想定外のことが起きても、最終的には目指していた目標達成の方向へ修正できると言い方もできます。ただ、

 

 

【思い通りにいかない時にこそ器が広がります】

 

 

具体的には、自分の思い通りに行かせることよりも、目の前にいる大事な人との人間関係の方を、より重要だという言動を取り続けることができるか・どうかが試されます。

 

物理の法則として、物と物が接すればその接点に摩擦が生じます。物と物が接しているにもかかわらず、摩擦が生じないということは、少なくても、ここ地球ではあり得ません。

 

同じように、人と人が接すれば、その接点に必ず摩擦が生じます。人と人が接していながら、その2人の関係の中に摩擦が全く生じないということはあり得ません。ただ偶然にエレベーターに乗り合わせただけというような相手とは摩擦は生じないかもしれませんが、その2人にはそもそも人間関係がありません。親子だとか、兄弟だとか、夫婦だとか、同じ会社の人間だ、、、とか、そこに何らかの人間関係があれば、摩擦は必ず生じ得ます。

 

人は摩擦を避けたいがゆえに、人間関係を避けたいのだと思います。人と距離を取りたい。1人になりたい。1人の時間が欲しい。それは、摩擦を避けたいという想いから生じる心理なのだと思います。

 

ただ、1人は1人です。1人でできることもたくさんありますが、1人の世界は有限です。限界があります。たとえある程度のことはできたとしても、大きなことはできません。大きなことは多くの人たちとの協力があってこそ初めて出来ます。だから、

 

 

自分の計画よりも、目の前の人との関係性をより重視できるか・どうか?

 

 

人は大きくは2種類の選択をとり得ます。

すなわち、

 

・目の前の人との関係性を悪化させてでも、自分の計画通りに行かせることを重視するか?

それとも、

・たとえ自分の計画通りに行っていなかったとしても、目の前の人との関係性を重視するか?

 

 

たしかに、1つ・1つ、自分の計画通りに行かせることを重視していると、その時・その時は上手くいきます。

ただ、自分の思い通りに物事が進めば文字通りの想定通りとなり、決して、想定を大きく超える結果にはなりません。何より短期的です。一時的です。次は次で、またゼロから計画を立てて、そして計画通りに行かせようとする必要があります。つまり、蓄積がありません。

 

一方、

 

たとえ今、目の前で起きている現実は自分の計画通りではなかったとしても、そこで湧き上がるイライラという感情を制御して目の前の人との関係性を重視した場合は、短期的には欲しい結果を得られません。イライラという感情とともに行動をしたら得られたかもしれない望む結果を手に入れられないかもしれません。しかし、良い関係性は残ります。つまり、蓄積があります。しかも何より長期的には

 

 

予測をはるかに超える結果を得られる可能性がある

 

 

確実というのは不確実性がないということです。良くも悪くも想定通り。だから不安を感じることがなかったとしても、予想外の出来事に大きくよろこぶ機会もありません。「これくらいの結果が出るかなと思ったら、予想通りにこれくらいの結果が得られた」ということになります。

 

しかし、

 

不確実性があるということは、良くも悪くも想定を超える可能性を持っています。結果が悪い方向へ振れる可能性もあるので不安も湧き上がってきますが、しかし、予想外の結果が得られて大きくよろこべる可能性を持っています。「これくらいの結果になると思っていたら、予想を超えてこんなに大きな結果が出た」ということも起こりえます。だから、

 

 

【思い通りにいかない時にこそ器が広がります】

 

 

イライラという感情は思い通りに行っていない時に湧き上がる感情です。だから、イライラという感情に従えば、思い通りに戻すことはできるかもしれませんが、たとえ実現したとしても思い通りです。想定を大きく超えるような結果にはつながりません。もし、想定を大きく超える結果を得たいということであれば、イライラという感情に従わない。制御する。たとえ不安を感じたとしても、不確実性を楽しみ、計画通りの進行よりも

 

 

目の前の人との関係性の方を重視する

 

 

人間関係は摩擦を生む代わりに、相乗効果を生む可能性も持っています。

1+1の結果が2ではなく、4、8、16、、、と飛躍的に大きくなっていく可能性を持っています。

だから、思い通りにいかない時は機会です。

 

【思い通りにいかない時にこそ人としての器が広がります】

 

思い通りにいかない時に

 

貴重な時間にて文章をお読みくださり感謝しています。
ありがとうございます。
それでは、また。

 

白坂慎太郎

 

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人を雇うということ

 

白坂です、

 

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さて、

 

人を雇うということ

 

正社員をお一方、雇いました。

わたしたちの会社にとって、とても大きな転機となる出来事です。

 

個人的に私は自分自身に禁止していたことが二つありました。

1つは、絶対に借金をしないこと

もう1つは、絶対に人は雇わないこと、、、

 

なぜ、私は自分自身に対して「絶対に人は雇わない」と決めていたかというと簡単です。

私は、「人を雇うのに向いていない人間である」と自分自身のことを理解していたからです。

会社員時代で管理職だった時、そして、進学塾を経営していて講師の方々を雇っていた時、、、過去2度に渡って、

 

 

「自分は本当に人を雇うというのに向いていないなぁ・・・」と痛感していました。

 

 

なぜ私が人を雇うのに向いていないか?

それも簡単です。私は厳し過ぎるから。

 

自分で言うもの何ですが、私は一般的に仕事が出来る方だと思います。

それは、私は私自身に厳しいからです。「やります!」と1度口に出したことは必ずやります。

守備範囲も広いです。必要最小限のことは一通り全部、自分で出来ます。

 

しかも速いです。基本、翌日に仕事を持ち越したということは、ここ7年間くらいありません。

その日にやるべき仕事はその日に終わらせてから寝ています。だから、一般的な基準で言うと、私は仕事が出来る方だと自分では思っています。なぜなら、私は自分に厳しいから。しかし、自分に厳しいがゆえに

 

 

相手にも厳しい

 

 

自分が持っている厳しい基準を相手にも無意識に期待してしまいます。

だから、相手の仕事に対して細かい所まで含めて、いろいろと指摘してしまうのです。

相手からすると全く反論できません。何せ、私が仕事ができる上に、言っていることも論理的に妥当なことばかりだから。だから、私は人を「やる気」にするのが得意である一方、

 

 

人の心も折ってしまう

 

 

そういったことを進学塾の業界にいた14年間で、何度も・何度も体験していました。

だから、諦めていたわけです。「私は人を雇うのには向いていない」、と。「人を雇ったからと言って、雇った分で会社の業績をあげられるわけでもないし、何より、相手自身を幸せに導けない」、と。

 

だから、私自身が1人で勝負する代わりに、私と関わる人も同じように1人で勝負した方が良いという価値観を持っていました。そうすれば、「人を雇う」とか「人を管理する」とか、そんな難しいことをやらなかったとしても、「好きなときに・好きな場所で・好きな人と・好きなことを・好きなように・好きなだけやれる」という自由な人生を実現できるのだから、それが私にとっても相手にとっても幸せなことだと思っていました。

 

ただ、

 

昨年2018年に本当にいろいろな方々とお会いさせていただく中で、私よりも圧倒的に経営者として上の結果を出されている方々から直接のアドバイスをいただく機会もありました。単なる雑談ではなく、弊社の決算書の数字を見ていただいた上での経営コンサルです。まず、ある男性経営者の方から、

 

 

「白坂さん、なんで人を入れないんですか?」

 

 

と言われました。その時は、正直、まだピンと来ていませんでした。「人を入れること」が「会社をより良くすること」だという結びつきが自分の中で出来なかったからです。話を聞きながら、「なぜ、人を入れるということが、そんなに大事なことなのだろう?」と半信半疑の気持ちでアドバイスを聞いていました。

 

しかし、

 

そのすぐ後に、今度は別の女性経営者の方からもアドバイスをいただきました。その方も経営者として信じらないくらい凄い結果を出されている方です。

 

 

「白坂さんお一人でこの結果を出されているのだったら、人を入れたら数字が1桁・2桁、、、変わりますよ。」

 

 

桁違いの結果を出されているお二方から全く同じアドバイスをいただいたことで、私は私自身に禁じていたことを破ることにしました。

 

 

「人を雇おう」、と

 

 

「なぜ、人を雇った方が良いのか?」は正直、分かっていませんでした。「人を入れること」が「会社をより良くすること」だという結びつきは、頭の中では出来ていませんでした。ただ、私よりも格段に上の結果を出している経営者の方々からすると、私の会社の最大の課題は私が1人でやっていることなのだということだけはハッキリしました。

 

とても貴重なアドバイスをいただいたにも関わらずやらないのだったら、その貴重なアドバイスそのものを無駄にしてしまいます。なので、昨年2018年の年末に、「来年2019年は、人を雇おう」と決意したわけです。

 

・・・・・・・・・・・・

 

人を雇うと決めた時点では、「なぜ人を雇った方が良いのか?」ということは正直、ピンと来ていませんでした。ただ、3回目の失敗だけは絶対にしたくない、という想いは強くありました。人は失敗しながら学んでいくものです。だから失敗してもいい。しかし、全く同じ失敗を何度も・何度もするというのは、あまりに愚かです。人としての成長が全くありません。だから、今度は、今度こそは失敗したくない。

 

なので、今度は事前準備をしっかりとしました。

ぶっつけ本番ではなく、事前に専門家と相談をしながら法的な受け入れ態勢をキッチリと整えた上で、初めて求人を行うことにしました。そして、いざ法的な周りを固めることが出来て、いよいよ求人を始めようかなと思った矢先に、

 

 

1人の素敵な女性を引き寄せました

 

 

育休から復帰してパートタイムとして別の会社さんに復職しようとしていたところの彼女に、「それだったら、うちで正社員として働きませんか?」と声をかけたところ、二つ返事で「よろこんで!!」と引き受けていただきました。私が、私自身や妻そして娘や息子など最愛の家族と同じくらい、純粋に、

 

 

「この人にも同じくらい幸せになって欲しいな」

 

 

と感じられる方でした。

 

そして、いざ雇う方が正式に決まって初めて、「なぜ、人を雇った方がよいのか?」ということが分かりました。雇う方が決まるまでは「なぜ、人を雇った方がよいのか?」は分かりませんでしたが、いざ雇う方が決まったら、「なぜ、人を雇った方がよいのか?」がハッキリと分かったのです。

 

 

幸せにしたい対象が明確に決まると、やった方が良いことが自然と見えてくる

 

 

「どうすれば彼女は『うちの会社で働いてよかった!』と感じてくれるのだろう?」という視点を持つと、経営者としてやった方が良いことというのが、どんどん見えてきました。今までは自分1人が、自分のやることを把握していれば良かった。極論、ぶっつけ本番の好き放題でもよかった。しかし、彼女という他人が会社に入るとなると話は別。会社はもう私個人の所有物ではなくなります。

 

 

「私の会社」が「私たちの会社」に変わる

 

 

理念、ビジョン、戦略、、、今まで「経営学」という机上で理解していたことが、実際上で「どれほど重要なものなのか?」というのが完全に腑に落ちました。理念などは形式的にあった方が良いものではなく、実際上で本当にあった方が良いものであり、また、ない状態で経営を上手く行かせることなど出来ないということが分かりました。

 

結局、30才で起業して14年間、会社経営をやってきていましたが、今年2019年が本当の意味で経営者になった年となりました。今までは肩書きこそ経営者だったものの、実質的な経営者ではなかった。今までは、

 

 

職人

 

 

自分で自分の職場を作っていた、だけ。たしかに職人だったおかげで、この14年間で仕事はできるようになりましたが、自分のためではなく他人のための職場は創っていませんでした。もし私が自分自身に禁じていた「人は絶対に雇わない」というオキテを守り続けていたら、私は一生、職人として生き続けたことでしょう。

 

もちろん、職人には職人の素晴らしいところもありますが、職人と経営者は明らかに別です。

職人は自分の職場を作りますが、経営者は

 

 

他人が働く場所を創ります

 

 

今までの14年間とは全く違った新しい仕事が始まりました。

まさに3度目の正直です。今度こそ上手く行かせていきたいという気持ちはあります。

そして何よりも、前の会社への復職を急遽で断ってまで、うちで働くことを決断してくれた彼女を

 

 

最高の幸せへと導いていきたい

 

 

と思っています

人を雇うということ

 

貴重な時間にて文章をお読みくださり感謝しています。
ありがとうございます。
それでは、また。

 

白坂慎太郎

 

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仏教の教え 涅槃寂静

 

白坂です、

 

文章のご確認、感謝しています。

ありがとうございます。

 

まず、

 

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さて、

 

 

仏教に関して、最近、より深い「気づき」があったので共有させていただきたいと思います。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

1.諸行無常(しょぎょうむじょう)

2.諸法無我(しょほうむが)

3.一切皆苦(いっさいかいく)

4.涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今回は、「4.涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)についての学びを深めていきたいと思います。

これは、簡単です。

 

 

心、静かな状況でいられる

 

 

ということです。

「心の平安とともに生きられる」ということです。

 

今までの流れで整理すると、

1.ありとあらゆるものが変化し続けている(諸行無常)

2.だから、ありとあらゆものの中の一人である自分も変化し続けている

  「これが私です!」と断言できるような絶対的な自分というのは存在していない(諸法無我)

3.ありとあらゆるものが変化し続ける中で、自分だけが自我に執着し続けたならば、ありとあらゆる出来事を苦しいと感じられる(一切皆苦)

4.だから、執着を捨てて、自我を捨てたならば、心、静かな状況で居られる(涅槃寂静)

 

この世は不確実です。

それは万人にとって同じです。

しかし、その不確実な世の中で、

 

・安定を求めれば求めるほど不安とともに生きることになり、

・不確実な世の中で不確実であるのは当たり前だから、時代に合わせながら生きていこうとするならば、どんな変化の中でも「心の平安」とともに生きられる

 

ということです。

 

そして、心の平安とともに生きられるようになった状態、つまり、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の境地に至った状態のことを

 

 

悟り

 

 

と呼んでいます。

なぜ、悟りと呼んでいるかと言えば、

 

 

自我というフィルターを通さずに、宇宙をありのままに観察できるようになっているから

 

 

ありとあらゆるものは無色透明です。1つ・1つに絶対的な意味などありません。

その意味のないものに対して「これが正しい」とか「これが間違っている」とか、「これはプラスだ」とか「これはマイナスだ」という意味を加えているのは自我です。過去の記憶です。固定観念です。

 

過去に「これが正しい」と1度信じたから、「自分が正しいと信じていることと違うものに直面したら、『それは間違っている』」と判断しているわけです。その固定観念とともに生き続けてしまうと、もう時代が変わっているのに、やはり「今でも正しいはずだ!」という観念で対応しようとし続けるので、ことごとく上手く行かなくなるわけです。

 

なぜなら、過去は正しかったかもしれないけれど、今では通用しない判断基準で判断し続けているからです。(一切皆苦)

 

もし、その人が涅槃寂静の境地に至っているならば、言い方を変えると、「心の平安」とともに生きられているとしたならば、その人は、その境地に至るまでの過程で固定観念を手放しているはずです。自我を捨てているはずです。であれば、その人が認識ている宇宙というのは、本人の自我というフィルターを通していません。つまり、宇宙のありとあらゆるものが無色透明で、ありのままに観えているはずです。だから、

 

 

悟っている

 

 

というわけです。

宇宙で起きているありとあらゆる出来事が、まるで精密時計のように、起こるべくことが起こるべくして必然で起きているという姿であるように観ることができています。

 

もしかしたら、

「悟りを開いても、ただ単に『心、静かに居られる』だけだったら、そんなに大したことではないのではないか?はっきり言って、そんなに人生における便益がないのではないか?」と思われるかもしれません。しかし、それは違います。悟りを開くというのは、人生において大きな便益があります。特に大きいのは、

 

1.問題を解決する能力が大幅に上がる

2.大きなエネルギーを発揮することができる

 

という便益があります。

 

まず最初の「1.問題を解決する能力が大幅に上がる」です。

なぜなら、

 

 

物事の解決法というのは、どんなものも本当は単純で簡単だから

 

 

たとえば、

 

「いや〜、ダイエットって本当に難しいですよね!

 いろいろなダイエット法を試してみたんですけれど、全然、痩せられません。

 一体、どうしたら本当に痩せられるのでしょうか?」

 

というような悩みがあったとして、もし、その人が悟っているならば、他のいろいろなものに迷わされないはずです。なぜなら、「太っているのは食べ過ぎだから」であり、

 

 

食べる量を減らせば痩せられる

 

 

という極めて単純な問題解決法が簡単に分かるからです。

同じように、

 

「いや〜、うちの業界は今とにかく不景気なんで、売上がなかなか上がらないで大変なんです。

 いろいろな勉強会や交流会に参加しているんですけど、いい解決方法を知ることができないんです。

 一体、どうやったら売上というのは上がるんでしょうか?」

 

という悩みがあったとしても、もし、その人が本当に悟っているのであれば、他のいろいろ複雑な要素に惑わされることはないはずです。売上が上がっていないのには、「売るという実際の行動をしていないから」であり、

 

 

売るという実際の行動をすればいい

 

 

ということが簡単に分かります。

 

問題が複雑に見えるのは悟っていないから。問題の解決法が難しく感じられるのも悟っていないから。

悟っていれば、いろいろな複雑な要素に惑わされません。どんな物事も本当はとても単純なので、シンプルな問題の本質を見抜いた上で、簡単な問題解決法を実際に実践すればいいということが分かります。つまり、

 

 

悟りを開いていると問題を解決する能力が格段に上がっています。

 

 

もう1つの、

「2.大きなエネルギーを発揮することができる」ということに関しても触れておきたいと思います。

 

普通、「大きなエネルギーを発揮している人」というのは、

・赤いネクタイを締めて、

・非常に激しい言葉で

・とても大きな声で一生懸命に自分の主張を力説している人

 

という印象があります。

 

確かに、そういう分かりやすい人もエネルギーがあるのはあるのですが、最も大きなエネルギーがある人ではありません。その人のエネルギーは怒りや憎しみが源になっているので、熱狂的な支持者を作る代わりに、強い敵も同時に作るのです。極論、

 

 

半分は味方になるけれど、半分は敵になってしまう

 

 

だから、ある程度の範囲までは影響力を持てたとしても、その影響力の広がりが限定されてしまうのです。しかも、そういう怒りや憎しみが源になっているエネルギーによって作った支持者というのは、簡単に、その激しい刺激に飽きてしまいます。

 

 

強い刺激は、早い飽きを作り出してしまう

 

 

まさに、一時期に凄いブームを作ったはずなのに、今ではみんなから忘れ去られてしまって、「あの人は今?」という状況になりやすいものです。一見、

 

・赤いネクタイを締めて、

・非常に激しい言葉で

・とても大きな声で一生懸命に自分の主張を力説している人

 

というのは1番、大きなエネルギーを持っているように見えますが、実は、極めて短期的なエネルギー。ゼロからイチを創る段階のような破壊と創造のステージでは活躍できますが、1を10に広げたり、10を100に広げたり、、、する段階だと活躍できなエネルギーの持ち主です。本当に大きなエネルギーを持っている人というのは、

 

 

静かな人

 

 

たとえるならば、赤い炎ではなく、もっと高温の青い炎をエネルギー源にしている人。

一見、静かで穏やかで全然目立たないのだけど、内面に非常に大きなエネルギーを秘めているので、なぜか、その人は大きな存在感がある人。

 

・仏教の釈迦

・キリスト教のイエス

・哲学者のソクラテス

・儒学者の孔子、、、

 

そういう1,000年、2,000年、、、経っても名前が残り、後世にずっと影響力を与え続けている人たちというのは、怒りや憎しみといった激しい赤い炎のエネルギーを発揮した人たちではなく、

 

 

静かな青い炎のエネルギーで生きた人たち

 

 

熱狂的なファンを作るわけではなかったとしても、ものすごい敵を作るわけでもない。

広く、静かに、さざ波が広がるかのように、少しずつ・少しずつ、まるで波紋のように影響力を広げていく人。表面上の見た目と違い、結果的に

 

 

ものすごく大きな影響を与える人

 

 

それが悟っている人です。

つまり、もしその人が本当に悟っているならば、「心、静かな状態で」、「高い問題解決能力を有し」、「内面の大きなエネルギー源で生きている」ので、結果的には

 

 

大成功もしていきます。

 

 

以上、まとめます。

 

1.ありとあらゆるものが変化し続けている(諸行無常)

2.だから、ありとあらゆものの中の一人である自分も変化し続けている

  「これが私です!」と断言できるような絶対的な自分というのは存在していない(諸法無我)

3.ありとあらゆるものが変化し続ける中で、自分だけが自我に執着し続けたならば、ありとあらゆる出来事を苦しいと感じられる(一切皆苦)

4.だから、執着を捨てて、自我を捨てたならば、心、静かな状況で居られる(涅槃寂静)

 

仏教そのものも本当は複雑ではありません。

単純です。シンプルです。

だからこそ、今でも教えとして後世に残っているわけです。

あとは、その悟りへの階段を1段ずつ・1段ずつ登っていく。どうやって?

 

 

縁起

 

 

今、縁あって目の前にいる人に対して、最善を尽くす。

一気にワープしようとするのではなく、一歩・一歩、着実に・着実に人の役に立つことを、自分の最善でやっていく。やり続けていく。そうすれば、自分の中にある「人の役に立つ力」が上がっていくので、自我が薄くなっていきます。人生を苦しくしている根本原因は自我なので、自我が薄くなっていけば、なっていくほど

 

涅槃寂静の境地で、心、静かに生きられるようになっています

 

 

貴重な時間にて文章をお読みくださり感謝しています。
ありがとうございます。
それでは、また。

 

白坂慎太郎

 

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仏教の教え 一切皆苦

 

白坂です、

 

文章のご確認、感謝しています。

ありがとうございます。

 

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さて、

 

仏教の教え 一切皆苦

 

仏教に関して、最近、より深い「気づき」があったので共有させていただきたいと思います。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

1.諸行無常(しょぎょうむじょう)

2.諸法無我(しょほうむが)

3.一切皆苦(いっさいかいく)

4.涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今回は、「3.一切皆苦についての学びを深めていきたいと思います。

 

文字通りに解釈したならば、「ありとあらゆるものが全て苦しい」となりそうですが、現実的には、「ありとあらゆるものが全て苦しいと【感じられる】」ということだと思います。つまり、人生とは絶対的に苦しいという現実があるのではなく、

 

 

人生をありとあらゆる面で苦しいものだと感じる【人】がいる

 

 

と解釈する方がより現実的だと思います。

なぜなら、全く同じ出来事なのにその出来事を、苦しいと解釈する人もいれば、楽しいと解釈する人もいるからです。ありとあらゆる出来事は苦しくもなければ・楽しくもありません。全ては無色透明。

 

 

その無色透明な出来事に解釈を加えているのは本人

 

 

ある出来事があった。

その出来事は本当は無色透明。

にもかかわらず、ある人はその出来事をプラスに解釈し、ある人はマイナスに解釈する。

マイナスに解釈すると、ありとあらゆるものが苦しいと感じられる。

 

では、

「なぜ、ありとあらゆるもを苦しいと感じられるのでしょうか?」

それは、簡単です。

 

 

自我があるから

 

 

つまり、

「諸行無常」なのに「無我」ではなく「自我」があるから。

 

・ありとあらゆるものは常に変化し続けている

・だから、ありとあらゆるものの中の一人である自分も常に変化し続けている

 (「これが「私です!」と断定できるような絶対的な自分など存在していない)

・にもかかわらず、全てが変わり続けている中で、記憶だけを拠り所として「これが私です!」と断固として主張し続けているから

 

 

・「これが私の好きなことです!」

・「これが私の嫌いなことです!」

 

・「これが私の得意なことです!」

・「これが私の苦手なことです!」

 

・「これが私のやりたいことなんです!」

・「これは私のやりたくないことなんです!」

 

・「これが私のやり方なんです!」

・「これが私のコダワリなんです!」

・「これが私の信念なんです!!!」

 

 

苦しくなるだけ

 

 

たとえるならば、みんなが電卓でわり算をしているのに、今だに鉛筆を持って筆算で計算し続けているようなものです。

 

 

「電卓で計算するなんて私は認めません!自分の手で筆算するからこそ意味があるんです!!」

 

 

と主張し続けているようなものです。

それは苦しいです。もっと楽に・簡単に・速くできるようになっているのに、わざわざ自分から大変で・難しく・時間のかかることをやり続けることにコダワッているわけですから。苦しくなるのは当たり前です。

 

 

コダワリを持てば持つほど人生はどんどん苦しくなる

 

 

人生そのものが苦しいわけではありません。昔、誰かから習った「これが正しい」という固定観念に縛られている人が、人生を勝手に苦しくしているだけ、です。

 

・冷蔵庫が普及しているのに、「冷蔵庫なんて邪道だ!水で冷やす方が食べ物にはいいんだ!!」

・洗濯機が普及しているのに、「洗濯機なんて邪道だ!手洗いをすることにこそ価値があるんだ!!」

・電子レンジが普及しているのに、「食べ物を温めて食べるなんて邪道だ!食べ物はその時・その場で作ることこそ正しいんだ!!」と言っているようなものです。

 

その人が、

・冷蔵庫を使わないのも勝手です。

・洗濯機を使わないのも勝手です。

・電子レンジを使わないのも勝手です。

 

しかし、

もっと楽に・簡単に・速くできるようになっているのに、わざわざ自分から大変で・難しく・時間のかかることをやり続けているのですから、

 

 

人生が苦しくなるのは当たり前

 

 

・インターネットが普及しても、「いや、手書きの手紙にこそ価値があるんだ!」と主張し、

・スマートフォンが普及しても、「いや、今までのガラケーの方が使いやすくていいんだ!」と主張し、

・人工知能が普及しても、「いや、自分の頭で考えることこそ意味のあることなんだ!」と主張するのは本人の勝手です。ただ、

 

 

人生は苦しくなります

 

 

周囲についていけず、時代からも他人からもどんどん置いていかれます。

やがて、年齢とともに身体がどんどんと硬くなり、やがて心もどんどん硬くなります。

頑固がさらに頑固を強化していきます。

 

人生そのものが苦しいのではなく、人生を苦しいと解釈する人がいるという人の問題。

「諸行無常」なのに「無我」ではなく「自我」があるから。

 

 

ありとあらゆるものが変化し続ける中で、「自分だけは絶対変わらない」と頑なにコダワッているから人生が苦しく感じられている

 

 

では、無色透明の人生を苦しいと感じながら生きるのではなく、楽しいと感じながら生きるにはどうしたらいいのでしょうか?簡単です。

 

 

自我をなくせばいい

 

 

つまり、

コダワらなければいい。時代が変わっているのだったら、その時代の変化に合わせて自分も変わり続けていけばいい。時代に素直に対応し続ければいい。

 

・みんなが冷蔵庫を使っているのだったら、自分も冷蔵庫を使えばいい

・みんなが洗濯機を使っているのだったら、自分も洗濯機を使えばいい

・みんなが電子レンジを使っているのだったら、自分も電子レンジを使えばいい

 

・みんながインターネットを使っているのだったら、自分もインターネットを使えばいい

・みんながスマートフォンを使っているのだったら、自分もスマートフォンを使えばいい

・みんなが人工知能を使い始めているのだったら、自分も人工知能を使い始めればいい、、、

 

たった、

それだけのことです。

そうすれば、

 

 

どんどん・どんどん楽に・簡単に・速くできるようになっています。

 

 

人生そのものが苦しいのではありません。違います。

苦しくしている自分がいるというだけ、です。

 

この世に絶対的に正しいことなんて、何一つありません。

たとえ、ある時代に一時期は正しかった考え方があったとしても、その考え方が正しかったのは、その時代だったからこそ。

 

 

時代が変われば正しい考え方も変わっています

 

 

昔、誰かから教えてもらったある考え方に執着し、「私が信じているこの正しい考え方からして、その考えは間違っている!」と主張し続けるのは本人の勝手です。人生は自由。本人が過去に作った固定観念でガンジガラメで縛られながら生き続けていくのも自由です。ただ、無色透明の人生を勝手に苦しいものだと解釈し続けているのは自分自身だということ。

 

ありとあらゆるものは常に変化し続けています。

だったら、その時代の変化に合わせて、自分も変化し続けていけばいいだけ。

そうすれば、時代は常に良くなり続けているのですから、

 

人生も常に良くなり続けていきます

 

仏教の教え 一切皆苦

 

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ありがとうございます。
それでは、また。

 

白坂慎太郎

 

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仏教の教え 諸法無我

 

白坂です、

 

文章のご確認、感謝しています。

ありがとうございます。

 

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さて、

 

仏教に関して、最近、より深い「気づき」があったので共有させていただきたいと思います。

 

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1.諸行無常(しょぎょうむじょう)

2.諸法無我(しょほうむが)

3.一切皆苦(いっさいかいく)

4.涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今回は、2.諸法無我についての学びを深めていきたいと思います。

 

「我は無い」ということなので「私はいない」ということになりそうですが、机上の空論としてではなく現実論として解釈するならば、

 

 

「これは私です!」と断定できるような「私は無い」

 

 

ということになると思います。

当然です。諸行無常ですから。ありとあらゆるものは変化し続けるわけですから、当然、

 

 

私も変化し続ける

 

 

「10年前の私」と「今の私」は変わっている方が自然。全く同じだったら恐ろしく不自然です。

もし、このことが腑に落ちていたならば、

 

・「私はこれが好きです!」と断言するのは不自然だということも分かります。

・「私はこれが嫌いです!」と断言するのも不自然だということも分かります。

 

・「私はこれが得意です!」と断言するのは不自然だということも分かります。

・「私はこれが苦手です!」と断言するのも不自然だということも分かります。

なぜなら、

 

 

私は常に変化し続けているはずだから

 

 

・「0才の時の私は出来なかったので、10才の私もやっぱり出来ません。」というのはオカシナ論理です。たしかに0才の時は出来なかったのかもしれませんが、10才の私でも出来ないか・どうかは、やってみなければ分からないはずです。

 

・「10才の時の私は出来なかったので、20才の私もやっぱり出来ません。」というのはオカシナ論理です。たしかに10才の時は出来なかったのかもしれませんが、20才の私でも出来ないか・どうかは、やってみなければ分からないはずです。

 

・「20才の時の私は出来なかったので、30才の私もやっぱり出来ません。」というのはオカシナ論理です。たしかに20才の時は出来なかったのかもしれませんが、30才の私でも出来ないか・どうかは、やってみなければ分からないはずです。、、、

 

こう考えていくと、人によってはどこかで、このオカシナ論理を受け入れてしまう場合があります。

たとえば、「60才の時の私は出来なかったので、70才の私もやっぱり出来ません。」、、、などです。これは論理的にはオカシナ論理です。0才の時にできなかったからと言って、10才の時にはできないとは言えないのであれば、60才の時にできなかったからと言って、70才の時でもできないとは言えないはずです。

 

にもかかわらず、60才の時にできなかったから70才でも当然にできないと、まるで当たり前のように解釈してしまうとしたら、その人は、諸法無我という漢字4文字は読めたとしても腑には落ちていないということです。

 

なぜでしょう?なぜなのでしょうか?

ありとあらゆるものが変化し続けるのであれば、自分自身も当然に変化し続ける方が当たり前であり、過去の自分がこうだったからといって、これからの自分も全く同じである必要なんか1ミリもないはずです。にもかかわらず、頑固なまでに過去の自分と同じようであり続けようとするのは、一体、なぜなのでしょうか?簡単です。

 

 

記憶

 

 

年齢を重ねれば・重ねるほど、記憶が増えていきます。

人間の脳の短期記憶というのは、無制限ではありません。有限です。スマホ本体に保存できる写真の容量に限界があるように、人間の短期記憶も、覚えておくことができる量に限界があります。

 

年齢を重ねれば重ねるほど、短期記憶に収まっている記憶がいっぱいになっていくので、逆に、新しいことを認識することが難しくなっていくのです。だから、60才の時にできなかったから70才の今でもできないというのは極めてオカシナ論理であるにもかかわらず、本人としては、さも当然のことであるように思ってしまっているわけです。なぜなら、

 

 

短期記憶の中に過去60年間の記憶が容量一杯でパンパンに詰まっているから

 

 

・真理は、諸法無我(ありとあらゆるものが変化し続けるならば、私という存在も変化し続ける)

しかし、

・実際は、「これが私です!」が固定。過去60年間でできなかったことは、今も、これからもできないと思い込んでいる。だから、変化が成長ではなく衰退になっている。

 

では、

 

どうすれば良いでしょうか?

どうすれば過去から解放され、真理とともに生きることができるようになるのでしょうか?

すなわち、ありとあらゆるものが変化し続ける中で、「どうすれば変化を衰退ではなく成長にしていくことができるのでしょうか?」簡単です。

 

 

記憶を捨てればいい

 

 

たとえば、スマホに保存することができる写真の容量がいっぱい・いっぱいになって、もう新しい写真を保存できる容量が残っていないとしたらどうすれば良いでしょうか?簡単です。今までスマホ内に保存されていた写真を別の媒体に保存し直した上で、スマホ内に保存していた写真を消去すればいい。そうすれば、スマホ内の空き容量が大幅に増えますから、もう1回

 

 

新しい景色を記録していくことができます

 

 

同じように、脳の短期記憶が過去の記憶によってパンパンになっているのであれば、もう短期記憶に新しい景色を新たに保存することはできません。もし、今からの人生で、新しい景色を脳の短期記憶に保存し始めたいのであれば、

 

 

過去の記憶を捨てればいい

 

 

すなわち、

・環境を変えて

・人間関係を変えて

・今までの記憶を時間とともに風化させていけばいい

 

のです。

 

・「私はこれが嫌いです!」と断言するのはオカシイのです。

   正しくは「今までの私はこれが嫌いだった!」なのであり、これからの私もそれが同じように嫌いであり続けるかどうかは分からないはずです。

 

・「私はこれが苦手です!」と断言するのはオカシイのです。

  正しくは「今までの私はこれが苦手だった!」なのであり、これからの私もそれが同じように苦手であり続けるかどうかは分からないはずです。

 

 

やってみないと分からないはずです

 

 

なぜなら、「諸法無我」だから。「これは私です!」と断定できるような「私は無い」のだから。ありとあらゆるものが変化し続ける宇宙の中では、当然、

 

 

私自身も変化し続けるのだから

 

 

あとは、その変化が「衰退という変化なのか」、それとも「成長という変化なのか」、、、

それは、

 

 

過去の記憶にどれだけ囚われているか・どうか

 

 

「これまでの数十年間、私はずっとこうだったんだから、今の私も、これからの私もずっとこうなんです!」という人は、間違いなく衰退していきます。年齢を重ねるごとに、身体がどんどん硬くなり、そして、やがて心まで硬くなった上で、頑固だからこその孤独な人生を歩んでいくことになります。そうではなくて、「これは私です!」と断定できるような「私は無い」のだから、

 

 

いつからでも全く別の人間に変わっていっても良い

 

 

変化を「成長という変化」にしていくことができる人は、とにかく素直な人です。環境を変えて、人間関係を変えて、そして、

 

 

変わった環境、変わった人間関係の方へ、自分を変えていく

 

 

・環境が変わった。だから、その新しい環境に合わせて自分を変える

・人間関係が変わった。だから、その新しい人間関係に合わせて自分を変える

そうすれば、宇宙そのものが進化の方向へ変わり続けていく以上、

 

 

自分自身も進化させ続けていくことができる

 

 

環境が同じ、人間関係が同じのままであれば、今までと同じような記録をただ上書き保存し続けるだけ。

記憶を捨てるどころか、どんどん強化し続けてしまう。だから、年齢を重ねれば重ねるほどに頑固になってしまう。時代が進化しているのに、「昔の方が良かった」と過去を懐かしむような人生になってしまう。そうではなくて、

 

 

環境を変えて、人間関係を変えて、記憶をどんどん風化させていく

 

 

今までと同じような記録をこれ以上、上書き保存しない。過去の記録を強化しない。風化させていく。良き想い出として感謝とともに卒業していく。そして、新しい環境、新しい人間関係の中に、自分自身を対応させていく。そうすれば、「これは私です!」と断定できるような「私は無い」のだからこそ、

 

 

全く新しい自分に出会うことができます

 

 

貴重な時間にて文章をお読みくださり感謝しています。
ありがとうございます。
それでは、また。

 

白坂慎太郎

 

追伸:

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仏教の教え 諸行無常

 

白坂です、

 

文章のご確認、感謝しています。

ありがとうございます。

 

まず、

 

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さて、

 

仏教に関して、最近、より深い「気づき」があったので共有させていただきたいと思います。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

1.諸行無常(しょぎょうむじょう)

2.諸法無我(しょほうむが)

3.一切皆苦(いっさいかいく)

4.涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今回は、「1.諸行無常(しょぎょうむじょう)」についての学びを深めていきたいと思います。

よろしくお願いいたします。

 

この宇宙に唯一存在している真理が「諸行無常」です。

「常なるものはない」すなわち、

 

 

ありとあらゆものは「変化」し続けている

 

 

このことだけは真理です。

では、「この真理を悟っているということは、どのように大事なのでしょうか?」

 

 

いつ・いかなる時も通用するような正しい答えなど探し求め「なくなる」

 

 

人間の脳というのは、基本、手抜きの天才です。なので、1度、身につけることができた知識や技能で、その後の人生もずっと上手く行かせようとする傾向があります。

 

・「あの大先生が教えてくれた情報だから正しいはずだ」

・「あの偉大な経営者が教えてくれた知識だから正しいはずだ」

・「みんなが言っていることだからこうするのが正しいはずだ」、、、

 

ありとあらゆるものが「変化」し続けるということが腑に落ちてい「ない」わけです

 

・その大先生が教えてくれた情報は、その時・その瞬間だからこそ正しい情報だったわけです。

 時間が経過した後までも正しいということは一切、保証されていません。

 

・その偉大な経営者が教えてくれた知識は、その時・その瞬間だからこそ正しい知識だったわけです。

 時間が経過した後までも正しいということは一切、保証されていません。

 

・みんなが言っている知識は、ある時・ある瞬間だからこそ正しいことだったわけです。

 時間が経過した後までも正しいということは一切、保証されていません。

 

 

ありとあらゆものは「変化」し続けている

 

 

・「うちの地域では、今までずっとこうして来たんです」

・「うちの業界では、今までずっとこうして来たんです」

・「うちの会社では、今までずっとこうして来たんです」、、、

 

 

「だから、何?」

 

 

ということです。

 

 

今、この瞬間の最善は、今、この瞬間の中にだけ存在しています

 

 

「過去に正しかったこと」は、「今、この瞬間に正しいこと」とは何の関係もありません。

たとえそれが、

 

・過去に親から教えてもらったことだろうが、

・過去に教師から教えてもらったことだろうが、

・過去に上司から教えてもらったことだろうが、

 

 

「今、この瞬間も正しいことなのか?」とは一切関係がありません。

 

 

もしかしたら算数でたとえると分かりやすいのかもしれません。

たとえば、カジノに置いてあるルーレット、、、

 

・1回目は、赤が出ました

・2回目も、赤が出ました

・3回目も、赤が出ました、、、

・10回連続で、赤が出ました

 

では、

 

「次の11回目は?」

・10回連続で赤が出たから、11回目も赤が出るでしょうか?

それとも、

・10回連続で赤が出たから、さすがに11回目は黒が出るでしょうか?

答えは、もちろん

 

 

わからない

 

 

今まで10回連続で赤が出たということと、次の11回目にどのような結果が出るかということには基本、何の関係もありません。だから、10回連続で赤が出たということは一切考える必要なく、次の11回目にどちらが出るかだけを考える必要があるわけです。同じように、

 

・過去にAという1つの価値観が正しかったとしても、今の時代にも同じようにAという価値観が正しいとは必ずしも言えません。過去はAで上手くいっていたのに、今はAだと逆に上手くいかないかもしれません。

 

逆に、

 

・過去にBという1つの価値観が間違っていたとしても、今の時代にも同じようにBという価値観が間違っているとも必ずしも言えません。過去はBで上手くいかなかったのに、今度はBで上手くいくかもしれません。

 

つまり、

 

「過去どうだったのか?」ということと、「今度はどうなるのか?」ということは基本、関係がない

 

ということです。

なぜなら、

 

 

諸行無常

 

 

過去と全く同じ「考え方」「やり方」が、今も上手くいくと考えるのは単純に脳の手抜き。

過去は過去。今は今。過去と今は基本、関係がありません。もし、今、この瞬間に存在している最善は

 

 

今、この瞬間の中にだけ存在している

 

 

人生というのは、「1度、答えを知ることができたら、それでゴール」というものではありません。過去に正しかった「考え方」「やり方」が、今も必ずしも正しい「考え方」「やり方」であるとは言えないですから。過去は、過去。今は今。

 

 

今、この瞬間の正しい「考え方」「やり方」は、今、この瞬間で考える必要がある

 

 

「こうして幸せに暮らしましたとさ。めでたし・めでたし、、、」というのは「おとぎ話」の世界だけ。

現実は、「過去は、こういう『考え方』、こういう『やり方』で幸せでした。では、

 

 

「今、この時・この瞬間、幸せに生きるための『考え方』と『やり方』は?」

 

 

を問い続ける必要があります。

・悪く言うと大変。生きている限り、決して楽はできない

しかし・

・よく言うと、

 

 

人生は常に面白く出来る

 

 

ありとあらゆるものが常に変化し続けているからこそ、常に新しい現実が現れ続けています。

正しい答えが変わり続けています。1つの問題を解決できたと思ったら、また次の新しい問題が目の前に現れます。生きている限り、ずっと問題を解決し続けていくことができます。諸行無常だからこそ、人生に飽きるということは決してなく、

 

 

いつも楽しく生きていくことが出来ます

 

 

貴重な時間にて文章をお読みくださり感謝しています。
ありがとうございます。
それでは、また。

 

白坂慎太郎

 

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