仏教の教え 諸法無我
白坂です、
文章のご確認、感謝しています。
ありがとうございます。
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さて、
仏教に関して、最近、より深い「気づき」があったので共有させていただきたいと思います。
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1.諸行無常(しょぎょうむじょう)
2.諸法無我(しょほうむが)
3.一切皆苦(いっさいかいく)
4.涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
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今回は、「2.諸法無我」についての学びを深めていきたいと思います。
「我は無い」ということなので「私はいない」ということになりそうですが、机上の空論としてではなく現実論として解釈するならば、
「これは私です!」と断定できるような「私は無い」
ということになると思います。
当然です。諸行無常ですから。ありとあらゆるものは変化し続けるわけですから、当然、
私も変化し続ける
「10年前の私」と「今の私」は変わっている方が自然。全く同じだったら恐ろしく不自然です。
もし、このことが腑に落ちていたならば、
・「私はこれが好きです!」と断言するのは不自然だということも分かります。
・「私はこれが嫌いです!」と断言するのも不自然だということも分かります。
・「私はこれが得意です!」と断言するのは不自然だということも分かります。
・「私はこれが苦手です!」と断言するのも不自然だということも分かります。
なぜなら、
私は常に変化し続けているはずだから
・「0才の時の私は出来なかったので、10才の私もやっぱり出来ません。」というのはオカシナ論理です。たしかに0才の時は出来なかったのかもしれませんが、10才の私でも出来ないか・どうかは、やってみなければ分からないはずです。
・「10才の時の私は出来なかったので、20才の私もやっぱり出来ません。」というのはオカシナ論理です。たしかに10才の時は出来なかったのかもしれませんが、20才の私でも出来ないか・どうかは、やってみなければ分からないはずです。
・「20才の時の私は出来なかったので、30才の私もやっぱり出来ません。」というのはオカシナ論理です。たしかに20才の時は出来なかったのかもしれませんが、30才の私でも出来ないか・どうかは、やってみなければ分からないはずです。、、、
こう考えていくと、人によってはどこかで、このオカシナ論理を受け入れてしまう場合があります。
たとえば、「60才の時の私は出来なかったので、70才の私もやっぱり出来ません。」、、、などです。これは論理的にはオカシナ論理です。0才の時にできなかったからと言って、10才の時にはできないとは言えないのであれば、60才の時にできなかったからと言って、70才の時でもできないとは言えないはずです。
にもかかわらず、60才の時にできなかったから70才でも当然にできないと、まるで当たり前のように解釈してしまうとしたら、その人は、諸法無我という漢字4文字は読めたとしても腑には落ちていないということです。
なぜでしょう?なぜなのでしょうか?
ありとあらゆるものが変化し続けるのであれば、自分自身も当然に変化し続ける方が当たり前であり、過去の自分がこうだったからといって、これからの自分も全く同じである必要なんか1ミリもないはずです。にもかかわらず、頑固なまでに過去の自分と同じようであり続けようとするのは、一体、なぜなのでしょうか?簡単です。
記憶
年齢を重ねれば・重ねるほど、記憶が増えていきます。
人間の脳の短期記憶というのは、無制限ではありません。有限です。スマホ本体に保存できる写真の容量に限界があるように、人間の短期記憶も、覚えておくことができる量に限界があります。
年齢を重ねれば重ねるほど、短期記憶に収まっている記憶がいっぱいになっていくので、逆に、新しいことを認識することが難しくなっていくのです。だから、60才の時にできなかったから70才の今でもできないというのは極めてオカシナ論理であるにもかかわらず、本人としては、さも当然のことであるように思ってしまっているわけです。なぜなら、
短期記憶の中に過去60年間の記憶が容量一杯でパンパンに詰まっているから
・真理は、諸法無我(ありとあらゆるものが変化し続けるならば、私という存在も変化し続ける)
しかし、
・実際は、「これが私です!」が固定。過去60年間でできなかったことは、今も、これからもできないと思い込んでいる。だから、変化が成長ではなく衰退になっている。
では、
どうすれば良いでしょうか?
どうすれば過去から解放され、真理とともに生きることができるようになるのでしょうか?
すなわち、ありとあらゆるものが変化し続ける中で、「どうすれば変化を衰退ではなく成長にしていくことができるのでしょうか?」簡単です。
記憶を捨てればいい
たとえば、スマホに保存することができる写真の容量がいっぱい・いっぱいになって、もう新しい写真を保存できる容量が残っていないとしたらどうすれば良いでしょうか?簡単です。今までスマホ内に保存されていた写真を別の媒体に保存し直した上で、スマホ内に保存していた写真を消去すればいい。そうすれば、スマホ内の空き容量が大幅に増えますから、もう1回
新しい景色を記録していくことができます
同じように、脳の短期記憶が過去の記憶によってパンパンになっているのであれば、もう短期記憶に新しい景色を新たに保存することはできません。もし、今からの人生で、新しい景色を脳の短期記憶に保存し始めたいのであれば、
過去の記憶を捨てればいい
すなわち、
・環境を変えて
・人間関係を変えて
・今までの記憶を時間とともに風化させていけばいい
のです。
・「私はこれが嫌いです!」と断言するのはオカシイのです。
正しくは「今までの私はこれが嫌いだった!」なのであり、これからの私もそれが同じように嫌いであり続けるかどうかは分からないはずです。
・「私はこれが苦手です!」と断言するのはオカシイのです。
正しくは「今までの私はこれが苦手だった!」なのであり、これからの私もそれが同じように苦手であり続けるかどうかは分からないはずです。
やってみないと分からないはずです
なぜなら、「諸法無我」だから。「これは私です!」と断定できるような「私は無い」のだから。ありとあらゆるものが変化し続ける宇宙の中では、当然、
私自身も変化し続けるのだから
あとは、その変化が「衰退という変化なのか」、それとも「成長という変化なのか」、、、
それは、
過去の記憶にどれだけ囚われているか・どうか
「これまでの数十年間、私はずっとこうだったんだから、今の私も、これからの私もずっとこうなんです!」という人は、間違いなく衰退していきます。年齢を重ねるごとに、身体がどんどん硬くなり、そして、やがて心まで硬くなった上で、頑固だからこその孤独な人生を歩んでいくことになります。そうではなくて、「これは私です!」と断定できるような「私は無い」のだから、
いつからでも全く別の人間に変わっていっても良い
変化を「成長という変化」にしていくことができる人は、とにかく素直な人です。環境を変えて、人間関係を変えて、そして、
変わった環境、変わった人間関係の方へ、自分を変えていく
・環境が変わった。だから、その新しい環境に合わせて自分を変える
・人間関係が変わった。だから、その新しい人間関係に合わせて自分を変える
そうすれば、宇宙そのものが進化の方向へ変わり続けていく以上、
自分自身も進化させ続けていくことができる
環境が同じ、人間関係が同じのままであれば、今までと同じような記録をただ上書き保存し続けるだけ。
記憶を捨てるどころか、どんどん強化し続けてしまう。だから、年齢を重ねれば重ねるほどに頑固になってしまう。時代が進化しているのに、「昔の方が良かった」と過去を懐かしむような人生になってしまう。そうではなくて、
環境を変えて、人間関係を変えて、記憶をどんどん風化させていく
今までと同じような記録をこれ以上、上書き保存しない。過去の記録を強化しない。風化させていく。良き想い出として感謝とともに卒業していく。そして、新しい環境、新しい人間関係の中に、自分自身を対応させていく。そうすれば、「これは私です!」と断定できるような「私は無い」のだからこそ、
全く新しい自分に出会うことができます
貴重な時間にて文章をお読みくださり感謝しています。
ありがとうございます。
それでは、また。
白坂慎太郎
追伸:
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