白坂です、
たとえば、
【清濁併せ吞む】という言葉があります。
>「善でも悪でも分け隔てなく受け入れる。」
(デジタル大辞泉より一部引用)
この考え方は、
一見、
・自分自身は限りなく善である存在であろうと努力しながら、
しかし、
・一方では悪をも受け入れる、、、
という風に解釈されがち、です。
しかし、理論上はともかく実際上は
無理
です。
なぜなら、
人の心は、自分の価値観とは違う考えを瞬間的に弾いてしまうから、です。
もし、
自分自身が善であろうと努力すればするほど、自分の信念に近い善の考え方であれば心が受け入れる。逆に、自分の信念とは反対の悪の考え方は瞬間的に心が弾く。受け入れられない。自分の信念を守るために相手を非難する。批判する。それが実際。
だから、
・自分自身は限りなく善である存在であろうと努力しながら、
しかし、
・一方では悪をも受け入れる、、、は
現実的には不可能
では、
もし、現実的に【清濁併せ吞む】が出来ているように見える人の心の在り方はどのような状態なのでしょうか?それは、
そもそも善悪に執着していない
善に執着すれば・するほど、悪を排除しようとする。
結局、争い事は、「どちらが正しいのか?」「どちらが善なのか?」が原因になっている。
だから、どんな考え方であれ、「これが正しい」「これが善」と執着すれば・するほど、結果的には争いが増える。もちろん、悪とレッテルを貼っている相手を受け入れることなど絶対に出来ない。
【清濁併せ吞む】とは、自分自身が善であろうと努力しながら、悪をも受け入れる、、、というような態度ではなく、そもそも、
善悪に執着していない
自分自身が善なる存在であるとか、善なる存在に近付こうなど、善に執着していない。自分自身が「正しい」ということに執着していない。自分が善に執着していないから、反対の悪にも執着しない。なぜなら、相手の考えが自分の信念の脅威になっていないから。だから、受け入れられる。
自分自身は善ではないし、善を目指してもいない。
自分自身が正しいとは限らないし、また、絶対的な正しさを追求してもいない。
だから、
誰かに対して悪というレッテルも貼らない。
相手と自分のどちらが正しいかも気にならない。
それが本当の
【清濁併せ吞む】
悪はともかく、
なぜ、善にも執着しない方が良いのか?
簡単です。
善は定義できないから
善は、国や時代が変われば変わります。
極論、80億人には80億通りの善がある。
生き方には答えがない。
「何が正しいか?」に答えがない。
絶対的に正しいものがない中で、ある人は正しいと信じていて、ある人は間違っていると信じている価値観の違い。
大抵の場合、18歳までの環境と人間関係によって作られた固定観念に過ぎない。
日本人の場合、義務教育として道徳教育を受けているので、善悪の判断は道徳が基準になっている場合が多い。
しかし、世界はもちろん日本国内においてさえ、道徳は成功とは何の関係もない。なぜなら、成功はどこまで言っても「需要と供給」で決まるものだから。
単に自我が形成される過程で、「こう生きるのが正しい」と一旦受け入れて信じた、、、という固定観念に過ぎない。道徳は万人共通の真理ではない。
・ある人にとっては、キリスト教が真理であり、
・ある人にとっては、イスラム教が真理であり、
・ある人にとっては、仏教が真理であり、
・ある人にとっては無宗教が真理
どの考え方、どの信念が正しいのか?
決められない。定義できない。
もし、自分の固定観念こそが正しく善であると考えていればいるほど、自分の固定観念に反する考えを瞬間的に弾く。もちろん、80億人の中に自分と完全に同じ価値観の人はいないので、結局、誰をも理解できない。受け入れられない。
【清濁併せ吞む】というのは、自分自身が善なる存在でありながら、時としては悪をも受け入れる、、、ということでは決して『ない』。違う。
そもそも、
自分自身が善に執着していない。
自分自身の考えの「正しさ」に執着していない。
だから、
相手を完全な悪だとレッテルを貼ることもない。
相手が100%、間違っていると決めつけることもない。
善悪に執着しない
あなたの「善」は、あなただけの「善」。
あなたの「正しさ」は、あなたにとってだけの「正しさ」。
生き方は自由。
考え方に答えはない。
人と人の価値観は違う。
それで社会での共同生活で不都合があれば、法律で線を引くしかない。
「自分こそが正しい」
「相手は絶対に間違っている」
と、どれほど考えたとしても基本、無意味。
社会での共同生活でどうしても支障があった場合、それは法律でハッキリさせるしかない。
・たとえ「自分こそが正しい」と信じていたとしても、法の適用で違法ということになれば違法。
・たとえ「相手は絶対に間違っている」と信じていたとしても、法の適用で合法ということになれば合法。
いずれにしても、検察官・弁護士・裁判官の仕事であって、それ以外の職業の人間は「何が正しい」「何が間違っている」に執着するのは、基本的に無駄。
・善は定義できない
・正しさも定義できない
国が違い、時代が違い、人が違えば、善は違う。正しさも違う。
そして、決して分かり合えない。だから、
善悪に執着しない
執着すべきは、需要。
「相手が求めていることは何か?」
「その相手に応えられるのは何か?」
・相手の求めは不安の解消なのかもしれない。
・相手の求めは欲求の充足なのかもしれない。
であれば、
その需要に応えられるか・どうか、、、が全て。
相手の求めに、余計な価値判断を持ち込まない。
少なくても判断する基準は道徳ではない。
宗教でもない。
自分自身が「善」であり、自分自身が「正しい」とする態度こそが傲慢。
そして、傲慢は対立を生み、時間とお金を無駄に浪費する。
善に執着しないからこそ悪にも執着しない。
正しさに執着しないからこそ間違いにも執着しない。
それが現実的な意味での【清濁併せ吞む】であり、
本当に器の広い人だと思っています。
今回は以上です。
本日も文章をお読みくださり感謝しています。
いつも本当にありがとうございます。
白坂慎太郎
追伸:


