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絶望のち希望

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白坂です、   絶望のち希望     希望は絶望の後に自ずと見えてくるものです。 それは、まさに真夜中の後に朝が訪れるのと同じような感じです。   もし絶望を感じないで済むのであれば、誰だって絶望など感じたくありません。 ただ、10年に1回とかで本当に人生が変わる転機があるとしたら、残念ながら絶望を避けることは出来ません。   まず、 そもそも、なぜ人生は滅多に変わらないのでしょうか? それは、   【信念が同じ→ 言動が同じ→ 結果が同じ】   まず、 人は、何らかを信じながら生きています。   ・「親から正しいと教えられたこと」 ・「教師から正しいと教えられたこと」 ・「自分の人生体験から正しいと考えたこと」、、、   ・道徳 ・宗教 ・周囲の人の意見、、、   信念が「価値観の優先順位」を決めています。 「誰を優先するのか?」「何を優先するのか?」 「何をするのか?」「何をしないのか?」、、、を決めています。   信念が同じということは優先順位が同じ、ということ。 だから、本人は本人なりに、その都度で考えながら判断しているように見えて、結局、同じ価値観・同じ優先順に基づいて判断し続けている。   当然、その人の言動も同じです。 だから、当たり前に結果も同じ。   もし変わるとしたら、 1番表面的には言動を変える必要がありますが、言動は信念に基づいているので、実際には変わりません。人は、これまで自分が正しいと信じたものを、これからも正しいと信じ続けながら生きたい存在。   信念を変えるということは、過去の自分の人生の否定を意味しますので、人は信念を変えない。同じ信念を持ち続けることで、過去の人生を肯定し続けながら、これからも生きていく。だから、   【信念が同じ→ 言動が同じ→ 結果が同じ】   今まで得ていた結果と同じような結果を望み続ける場合、むしろ大きな問題は起こりません。もちろん絶望を感じることもありません。ただ、時間とともに緩やかに・緩やかに、しかし、着実に衰退し続けていくのみ。   逆に、 今まで得ていた結果と全く違う結果を望み始めた場合、大きな問題が起こります。全く違う結果を望んだ場合、今まで挑戦したことがない何らか新しいことに挑戦することになりますが、   上手く行かない   新しいことに挑戦した場合、知識・技能・経験の不足によって、上手く行かない。新しい環境・新しい人間関係に古い信念で対応しても失敗する。   ・違う結果を求める ↓ ・新しい挑戦をする ↓ ・失敗する     そして、     ・新しい挑戦をする ↓ ・失敗する     さらに、     ・新しい挑戦をする ↓ ・失敗する   やがて     絶望する     今までと違う結果を得るために、古い信念を元に考えた手段が悉(ことごと)く上手く行かなかった場合、挫折します。やがて、実現可能性が見えなくなり絶望します。 「もう無理」「もう限界」「万策尽きた」、、、と心が諦めます。その時、初めて、     今までの信念を手放し始める     【信念が同じ→ 言動が同じ→ 結果が同じ】 大元中の大元は信念。   たとえば、 今までと同じパソコンのままで、スマホ用の新しいアプリが上手く動かないのは当たり前。アプリの問題ではなく、大元のパソコンの問題。   下手に可能性が残っている間は、今までと同じパソコンで、何とか・何とか新しいアプリを動かそうとし続けてしまう。しかし、何をやっても、何度やっても上手く行かない。結果好転の可能性があるうちは挑戦できる。しかし、結果好転の可能性が見えなくなった時、     人は絶望する     文字通り絶望的に上手く行かないことが続いた時に、ついに気づく。 これは、ちょっとや・そっとの小手先の改善では、どうにもならない、、、と。     もっと根本の大元が変わる必要がある、と。     人は、1度、形成した信念を、基本、変えられない。 だから、自分の信念はそのままで、小手先の方法だけを変えて、何とか結果を変えようと試みる。しかし、どれだけ小手先の方法を変え続けても、やっぱり・どうして何とか望む結果を得ようとした時に、     今までの信念を手放し始める     絶望は、今までの自分の信念では実現可能性が見えなくなった状態。 人は、自分が重要だと思っていることしか見たり・聞いたりしないので、信念が変わらない間は、気づけることが同じまま。   しかし、 いざ、今までの信念を手放し始めると、見えること・聞こえることが変わり始める。対象に対して自分の感じ方も変わり始める。気づきが変わり始める。すると、絶望して1度、見えなくなった実現可能性が再び見え始める。     【絶望のち希望】     人生、山あり谷あり。 精神的に1番キツイのは絶望した時よりも、むしろ、絶望に向かって結果が下向きになっている途中。下がっている時は、どこまで下がり続けるか「分からない」という怖さがある。将来が「分からない」という怖さに対して最も助けになるのは、     【どんなことがあっても絶対に大丈夫】     という目に見えないものを信じる気持ち。 その目に見えないものが何か。 神様・仏様・宇宙、、、それは信仰の自由。 ただ、宗教やスピリチュアルが本当に助けになる時期があるのは確か。   絶望前の方が怖い。 そして、絶望している時はむしろ落ち着いている。 なぜなら、下がるところまで下がり切れば、     もう失うものがないから     なぜか落ち着いた心境で、今までの古い信念をゆっくりと手放し始める。 「きっと何とかなる」という、むしろ穏やかな状況で居られる。 そして、信念を手放した後に、少しずつ・少しずつ実現可能性が見え始める。     【絶望のち希望】     夢は簡単には叶わないからこそ夢。 ただ、実現不可能な夢は、そもそも描きさえしない。 もし夢を描けたというのであれば、「こういう状況が理想だ」とイメージできたというのであれば、、、たとえ実現は簡単ではなかったとしても、     必ず叶えられる可能性はある     本当だったら絶望することなく希望を感じたい。 しかし、人生は、そのようにはなっていない。 人生の法則は、     【失う→ 空っぽになる→ 新しいものに変わる】     失うことなく足し続けることは出来ない。 絶望があってこそ、新しい未知への希望が見える。 夜明けの後にこそ朝日が昇る。   もし、 人生の下り坂を感じている途上の時は、何の根拠もなく、「絶対に大丈夫」と信じること。神様でも・仏様でも・宇宙でも何でもいい。最も自分がシックリと来る目に見えないものを信じて耐える。時を1日・1日、淡々と経過させる。   そして、 もし、下がるところまで下がり、もう失うものが何もなくなったとしたら、、、その時は、潔く、今までの信念をゆっくりと・ゆっくりと手放して良い。過去の自分に執着しない。   時代が変わり、環境が変わり、ゴールが変わったならば、古い自分では対応できないのだから。新しい自分でこそ希望を見出せるのだから。   絶望を感じられるのは、今までの自分で思いつく限りのことを全てやり切ったからこそ。やることを全てやって選択肢が1度、全部、消えたからこそ感じられるのが絶望。   絶望に至るまでの下り坂の時はツライ。 そして身体が震えるくらい怖い。 ただ、   絶対に大丈夫   大丈夫である理由は要らない。 ただ、盲目的に大丈夫と信じていい。 人生は思い通りにならない。 良い方ではもちろん悪い方でも。   人生は必ず何とかなる   いざ川に流されたと感じている時は、ジタバタせずに思い切って川の流れに身を任せて流されてみる。下流まで流されてみる。いざ、1番の下流まで流された時に見える景色は、流され始めた時の景色とは違うものが見える。それが、     絶望の後に見える希望     1度、心で描くことが出来た夢は、たとえ途中どんなことがあっても最終的には必ず叶えられる。川に流されている間は1日・1日一生懸命すぎて気付けない。しかし、10年単位で人生を見たら必ず分かる。あの時・あの瞬間の絶望、そして、その後に見えた希望があってこそ、     夢を叶えることが出来た、と。   絶望のち希望 今回は以上です。 本日も文章をお読みくださり感謝しています。 いつも本当にありがとうございます。 白坂慎太郎   追伸: → ブログ読者さんへの無料プレゼント続きを読む

善悪に執着しない

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白坂です、   善悪に執着しない     たとえば、 【清濁併せ吞む】という言葉があります。   >「善でも悪でも分け隔てなく受け入れる。」   (デジタル大辞泉より一部引用)     この考え方は、 一見、   ・自分自身は限りなく善である存在であろうと努力しながら、 しかし、 ・一方では悪をも受け入れる、、、   という風に解釈されがち、です。 しかし、理論上はともかく実際上は   無理   です。   なぜなら、 人の心は、自分の価値観とは違う考えを瞬間的に弾いてしまうから、です。   もし、 自分自身が善であろうと努力すればするほど、自分の信念に近い善の考え方であれば心が受け入れる。逆に、自分の信念とは反対の悪の考え方は瞬間的に心が弾く。受け入れられない。自分の信念を守るために相手を非難する。批判する。それが実際。   だから、 ・自分自身は限りなく善である存在であろうと努力しながら、 しかし、 ・一方では悪をも受け入れる、、、は   現実的には不可能   では、 もし、現実的に【清濁併せ吞む】が出来ているように見える人の心の在り方はどのような状態なのでしょうか?それは、     そもそも善悪に執着していない     善に執着すれば・するほど、悪を排除しようとする。 結局、争い事は、「どちらが正しいのか?」「どちらが善なのか?」が原因になっている。   だから、どんな考え方であれ、「これが正しい」「これが善」と執着すれば・するほど、結果的には争いが増える。もちろん、悪とレッテルを貼っている相手を受け入れることなど絶対に出来ない。   【清濁併せ吞む】とは、自分自身が善であろうと努力しながら、悪をも受け入れる、、、というような態度ではなく、そもそも、   善悪に執着していない   自分自身が善なる存在であるとか、善なる存在に近付こうなど、善に執着していない。自分自身が「正しい」ということに執着していない。自分が善に執着していないから、反対の悪にも執着しない。なぜなら、相手の考えが自分の信念の脅威になっていないから。だから、受け入れられる。   自分自身は善ではないし、善を目指してもいない。 自分自身が正しいとは限らないし、また、絶対的な正しさを追求してもいない。   だから、 誰かに対して悪というレッテルも貼らない。 相手と自分のどちらが正しいかも気にならない。 それが本当の   【清濁併せ吞む】   悪はともかく、 なぜ、善にも執着しない方が良いのか? 簡単です。     善は定義できないから     善は、国や時代が変われば変わります。 極論、80億人には80億通りの善がある。   生き方には答えがない。 「何が正しいか?」に答えがない。 絶対的に正しいものがない中で、ある人は正しいと信じていて、ある人は間違っていると信じている価値観の違い。   大抵の場合、18歳までの環境と人間関係によって作られた固定観念に過ぎない。 日本人の場合、義務教育として道徳教育を受けているので、善悪の判断は道徳が基準になっている場合が多い。   しかし、世界はもちろん日本国内においてさえ、道徳は成功とは何の関係もない。なぜなら、成功はどこまで言っても「需要と供給」で決まるものだから。   単に自我が形成される過程で、「こう生きるのが正しい」と一旦受け入れて信じた、、、という固定観念に過ぎない。道徳は万人共通の真理ではない。   ・ある人にとっては、キリスト教が真理であり、 ・ある人にとっては、イスラム教が真理であり、 ・ある人にとっては、仏教が真理であり、     ・ある人にとっては無宗教が真理     どの考え方、どの信念が正しいのか? 決められない。定義できない。   もし、自分の固定観念こそが正しく善であると考えていればいるほど、自分の固定観念に反する考えを瞬間的に弾く。もちろん、80億人の中に自分と完全に同じ価値観の人はいないので、結局、誰をも理解できない。受け入れられない。   【清濁併せ吞む】というのは、自分自身が善なる存在でありながら、時としては悪をも受け入れる、、、ということでは決して『ない』。違う。   そもそも、 自分自身が善に執着していない。 自分自身の考えの「正しさ」に執着していない。   だから、 相手を完全な悪だとレッテルを貼ることもない。 相手が100%、間違っていると決めつけることもない。     善悪に執着しない     あなたの「善」は、あなただけの「善」。 あなたの「正しさ」は、あなたにとってだけの「正しさ」。   生き方は自由。 考え方に答えはない。   人と人の価値観は違う。 それで社会での共同生活で不都合があれば、法律で線を引くしかない。   「自分こそが正しい」 「相手は絶対に間違っている」 と、どれほど考えたとしても基本、無意味。   社会での共同生活でどうしても支障があった場合、それは法律でハッキリさせるしかない。   ・たとえ「自分こそが正しい」と信じていたとしても、法の適用で違法ということになれば違法。 ・たとえ「相手は絶対に間違っている」と信じていたとしても、法の適用で合法ということになれば合法。   いずれにしても、検察官・弁護士・裁判官の仕事であって、それ以外の職業の人間は「何が正しい」「何が間違っている」に執着するのは、基本的に無駄。   ・善は定義できない ・正しさも定義できない   国が違い、時代が違い、人が違えば、善は違う。正しさも違う。 そして、決して分かり合えない。だから、     善悪に執着しない     執着すべきは、需要。 「相手が求めていることは何か?」 「その相手に応えられるのは何か?」   ・相手の求めは不安の解消なのかもしれない。 ・相手の求めは欲求の充足なのかもしれない。   であれば、 その需要に応えられるか・どうか、、、が全て。   相手の求めに、余計な価値判断を持ち込まない。 少なくても判断する基準は道徳ではない。 宗教でもない。   自分自身が「善」であり、自分自身が「正しい」とする態度こそが傲慢。 そして、傲慢は対立を生み、時間とお金を無駄に浪費する。   善に執着しないからこそ悪にも執着しない。 正しさに執着しないからこそ間違いにも執着しない。 それが現実的な意味での【清濁併せ吞む】であり、     本当に器の広い人だと思っています。   善悪に執着しない 今回は以上です。 本日も文章をお読みくださり感謝しています。 いつも本当にありがとうございます。 白坂慎太郎   追伸: → ブログ読者さんへの無料プレゼント続きを読む

ダラダラでも続ける

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白坂です、   ダラダラでも続ける 結果を出すのに「最大」の要素は何でしょうか? 自分自身の『やる気』でしょうか? もちろん、違います。   結果を出すのに最も大事な要素は、   【タイミング】   です。   ・たとえ自分自身がどれだけ『やる気』がある状態だったとしても、【タイミング】が合っていない時は良い結果が出ません。   逆に、 ・たとえ自分自身は大して『やる気』がない状態だったとしても続けてさえいれば、 いずれ【タイミング】に恵まれて結果が出ます。     たとえば、 サッカー。   ストライカーに求められていることは何でしょうか? もちろん、点数を取ることです。 では、 点数を取るために決定的なチャンスというのは、どれくらいの頻度であるのでしょうか?90分間の「10分の1」:9分間もありません。もっと短い時間。もっと一瞬です。   要するに、 ストライカーに求められているのは、90分間の中でわずかに訪れる決定的なチャンスの瞬間に【集中力】を発揮してシッカリと点数を決めること。逆に、それ以外の時間帯は、     ダラダラでも構わない     ということです。   ストライカーにとって重要ではない時間まで、いつも・いつも全速力で走り続け、無駄に体力と集中力を浪費している選手は、逆に二流。もし超一流であれば、ゲームの状況を冷静に観察し続けた上で、力を抜く時は抜く。そして、数少ない機会に自分の持っている力を全集中で発揮する。だから、     ダラダラでも続ける     タイミングは自分だけではコントロールできません。 自分に出来るのは、その分野・その場所に居続けることだけ。 いつも・いつも全力である必要はなく、まずは、その分野・その場所に居続けることが大事。   これが間違って、 【タイミング】よりも『やる気』の方を重視してしまうと、逆に、上手く行きません。なぜなら、『やる気』は当てにならないから、です。   『やる気』というのは「不足感」です。 だから、   初めて挑戦する時が「不足感」が大きいので、最も「やる気」が出る ・自分は初挑戦で、知識・技能・経験がゼロ ・だから、「不足感」が大きく「やる気」が出る ・結果、ゼロ点から60点くらいまでは、短期間で一気に伸びる   いざ 自分が60点になっていたら、どうでしょうか? 「やる気」は確実に落ちています。 最初の頃のような、ワクワク・ドキドキ感は確実に薄れています。   しかも、 知識・技能・経験、、、の伸びも、明らかに鈍化しています。 0点から60点よりも、60点から80点の方が遥かに難しい。 しかも、80点から85点の方が更に難しくなる。   脳の中には、 自分が0点だった時の、ワクワク・ドキドキ感が残っている。 0点から60点まで短期間で一気に伸びた記憶もある。   同じような感覚で60点から80点、そして、80点以上を目指すと壁にぶち当たる。限界を感じる。   >「やっても伸びない、、、」   人は、「やっても結果が出ないことは無駄」と感じる生き物。 だから、もし自分の『やる気』を行動の基準にしていると、   伸びなくなった中級の時点で辞めてしまう   そして、 また、自分がワクワク・ドキドキするものを探し始めてしまう。 こうして、「0→60」「0→60」「0→60」、、、を繰り返し続けてしまう。結果、いろいろなことを沢山やりながら、中途半端なものだけが増えていってしまう。   自分なりに上手になった。 自分以下の初心者も沢山いる。 しかし、60点は60点。中途半端は中途半端。   本当に成功に導くは、 中途半端ではなく、あくまで卓越。   では、 60点から80点、そして、80点以上を目指し続けるには、どうすれば良いのか? それが、   ダラダラでも続ける   >「壁にぶつかった」 >「自分の限界を感じている」 >「『やる気』を全然、感じない」、、、全て、自分基準です。   結果とは何の関係もない。 なぜなら、結果を決めるのは自分ではなく他者であり世間だから。   結果は、自分自身の『やる気』では決まらない。 【タイミング】で決まる。 であれば、その【タイミング】が訪れるまでは   ダラダラでも続ける   0点から60点までの短期間における劇的な伸びを実感できる日は、残念ながら、もう2度と来ない。ただ、途中で辞めてしまえば結果は確定。一方、続けてさえいれば、何度も・何度も挑戦し続けているうちに、     80点を81点にすることが出来る     そして、 81点を82点にし、83点にし、、、としながら、辛抱強く、粘り強く、たとえ時間をかけてでも、その分野で必要な行動を続けていれば、それまでの努力と     【タイミング】が合う瞬間が訪れる     たとえば、 「サッカーのストライカーが【タイミング】を活かせるか・どうか?」は、その【タイミング】の瞬間、フィールド内に居ること。そして、そもそも、サッカーを続けていること。24時間365日、全力である必要はない。いつも全力は不可能。90分間の試合中、常に全速力で走るのは、逆に体力と集中力の浪費にさえなってしまう。   もし、 自分にとって『やる気:100』の状態を基準としてしまうと、大抵の時間、行動しないことになる。なぜなら、『やる気:100』の状態など、人生で滅多に感じられるものではないから。   『やる気』の基準は、低ければ・低い方が良い。 極論、「マイナス100でなければ良い」くらいの緩い基準であれば、「マイナス30」の時は、行動できる。   辞めた後に再開するのには、最初に始めるのに近いくらい大きなエネルギーが必要になる。車の運転と同じ。赤信号で停止する度にエンジンを切っていたら、燃費は最悪。1度、エンジンを動かしたら、目的地に到着するまではエンジンをかけっ放しにしておいた方が、少ない燃料で走り続けることが出来る。だから、     ダラダラでも続ける     サッカーの試合で90分間すべてが機会ということはない。 しかし、90分間で、ただの1度も、一瞬も機会が訪れないということもない。 機会の時は、言うまでもなく全集中。しかし、それ以外の時間は極論、     ダラダラでも良い     やる気を基準にしない。 感情は当てにならない。   行動すること。 続けること。 機会を待つこと、、、を優先する。   続けてさえすれば、 知識・技能・経験は磨かれ続けるもの。 そして、いずれタイミングが来た時に、 全力でボールを蹴り込むことで     見事なシュートを決めることが出来ています   ダラダラでも続ける 今回は以上です。 本日も文章をお読みくださり感謝しています。 いつも本当にありがとうございます。 白坂慎太郎   追伸: → ブログ読者さんへの無料プレゼント続きを読む

誠意ある対応とは?

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白坂です、   誠意ある対応とは? 誠意ある対応とは?   【結論】 「スピード」と「お金」     誠意に関しては、 「建前」と「本音」が全然違います。     建前の誠意とは? >「私利・私欲を離れて、正直に熱心に事にあたる心。」 (デジタル大辞泉より一部引用)   つまり、 本人自身の心構え次第ということです。   では、 本人自身が、私利私欲ではなく正直に熱心な気持ちで仕事に取り組んでさえすれば、実社会で、【相手】は「この人は誠意ある人だ」と感じてくれるでしょうか?答えは   NO なぜなら、人は、相手の心が見えないから。 相手が「私利私欲でやっているのか?」「正直で熱心にやっているのか?」を理解することは出来ません。つまり、自分自身がどれほど誠意ある態度で仕事に臨んでいたとしても、目に見えない誠意は相手に伝わっていません。   もし相手に誠意を伝えたいのであれば、目に見える【分かりやすい】ものである必要があります。すなわち、実社会における本当の「誠意」とは、     【「スピード」と「お金」】です。     まず、 「スピード」の方から。   たとえば、 ・私利私欲を持たず、 ・真面目に ・熱心に取り組んでいたとしても、   相手への返答が遅ければ、 相手は決して誠意は感じません。 単に、自分は後回しにされているとしか感じません。   だから、 単なる自己満足の誠意ではなく、相手にもしっかりと伝わる本当の誠意を示したいのであれば、   最速対応   たとえば、相手から仕事上のメールが来たとします。 そして、その内容は、すぐには対応が難しいものだとします。 調べてから返信する必要があるかもしれません。 上司に確認をしてから返信する必要があるかもしれません。   ここで、 大抵の場合、間違います。   ・私利私欲を持たず、 ・真面目に ・熱心に調べたり・上司に確認をした結果、   相手への返信が遅くなってしまう。   本人は誠意ある対応をしたつもりでいる。 しかし、相手には完全に逆で、誠意のない人だと解釈される。 理解してくれない相手が悪いのではない。 目に見える【分かりやすい】誠意を示さなかった自分が悪い。   では、 「どうすれば良かったのでしょうか?」 簡単です。   メールを受信した瞬間に、最速で返信すればいい。 たとえば、   >「メールを拝受しました。     ご依頼いただいた内容の件に関しては、   これから早急に調べた上で、   あらためて再度、返信申し上げます。     取り急ぎ、お礼まで。   ご連絡に感謝しています。   いつも本当にありがとうございます。」   こういう内容のメールを最速で1通、 返信しているだけで、相手の印象は全然違う。 最速で返信を受け取れたというだけで、相手は誠意を感じてくれる。   大事なことなので3回書きます。   ・誠意とは、内容よりもスピード ・誠意とは、内容よりもスピード ・誠意とは、内容よりもスピード   ・・・・・・・・・・   もう1つ、 誠意とは「お金」。   たとえ、自分自身が ・どれほど私利私欲の気持ちから ・真面目に ・熱心に取り組んでいたとしても、   相手に全く誠意が伝わっていないとしたら、 それは、単純に   相手に金銭的なメリットが全くもたらされていないから   たとえば、 婚約。   結納の際に、相手方のご両親に、 >「僕は娘さんを世界で1番、愛しています!   だから、娘さんを僕にください!!」 と熱心に伝えたとします。   ・結納金:ゼロだったら、誠意は伝わりません。 ・その時点で、自分が納められる最大限の金額を包めば誠意は伝わります。   理由は簡単です。 ・「愛している」という感情は不確かなものであるのに対して、 ・「お金」は確実に存在しているものだから。   たとえ、 >「僕は娘さんを世界で1番、愛しています!   だから、娘さんを僕にください!!」   というのが本心・本音だったとしても、 その相手が初めて好きになった相手とは限らないし、 その愛が永遠に続く保証はどこにもない。   日本においてでさえ「3組に1組」が離婚をしている中で、果たして「愛しています!」という言葉にどれほどの説得力があるのか。   一方、 1万円というお金は、確実に1万円の「商品・サービス」と交換できる。   ・感情は不確か ・お金は確か     建前はともかく 現実的に、   誠意とは「お金」   たとえ言葉では何を言おうとも、いつも・いつも無料で相手に求め続ける場合、相手には誠意は伝わらない。気持ちという目に見えないものは、相手には伝わらない。   結納のような相手に直接でお金を包む場合に限らない。 ・お中元 ・お歳暮 ・交際費、、、   「僕は君のことを世界で1番に愛している。  でも、デートはいつも割り勘で。」   相手は誠意を感じない。 毎回・毎回、奢って欲しいとまでは言わないものの、毎回・毎回、割り勘だと恋も興醒め。何も言わず、サッと会計を支払ってもらってこそ、   >「あぁ、この人は本当に自分のことを大切にしてくれているんだ」   と感じるのが人情。   恋愛に限らずビジネスも全く同じ。 「なぜ、税務署は企業の接待交際費を年800万円まで会社経費として認めてくれているのか?」それは、   現実の誠意が「お金」であることを税務署も理解しているから   >「御社にはいつも大変にお世話になっているので、ここは弊社経費で出させてください。」   それで、 相手に実際にとても美味しいご飯を食べていただく。 最大限のサービスをお店側から受けていただく。   単に、 私利私欲を持たず、真面目に熱心に仕事をしているだけでは不十分。 何より、自分の心は相手からは見えない。気づけない。分からない。   もし、 相手が自分にとって本当に大事な相手だというのであれば、目に見えない心などに依存するのではなく、目に見える分かりやすいもので誠意を示す。   建前はともかく、 実社会での誠意とは、   【「スピード」と「お金」】   ・遅いというだけで、内容に関係なく失格。  最速というだけで、内容に関係なく合格。   ・金銭的なメリットゼロで相手に誠意は伝わらない。 ・もし本当に誠意を伝えたいなら、金銭的なメリットとともに分かりやすく伝える。   もし相手が自分にとって本当に大事だと思っているのであれば、思っているだけでは不十分。相手に伝わってこそ誠意には意味がある。だから、     【「スピード」と「お金」】で誠意を分かりやすく伝える。 ・「いかに最速で対応できるか?」 ・「いかに相手に金銭的なメリット『も』与えられるか?」 大事な相手だから許されるわけではない。 むしろ、大事な相手だからこそ、「スピード」と「お金」でしっかりと誠意を示す。 そうしてこそ、     真に『最高の人間関係』を築いていくことが出来ています   誠意ある対応とは? 今回は以上です。 本日も文章をお読みくださり感謝しています。 いつも本当にありがとうございます。 白坂慎太郎   追伸: → ブログ読者さんへの無料プレゼント続きを読む