平等は建前、自由が本能
白坂です、
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>「人は生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」
人権宣言:「第1条」
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誰もがスッと受け入れる、この1文・この1行。
しかし、
・人が生まれながらに自由であるのは本能であって、
・人が生まれながらに平等であるというのは理想論である
ということに気づいている人は少ないように思います。
より正確な表現を目指すのであれば、
本当は人は生まれながらに平等ではないけれど、平等であるべき
という頭の理屈です。
全世界、過去数千年間の歴史において、全人類が実際上で平等であったということは、これまで1度もなかったです。そして、これからも永久にありません。むしろ、格差は広がる一方です。なぜなら、人の本能というのは平等ではなく自由だから。
人の時間の使い方が自由であれば、結果に差がついていくのは当然
たとえば、
・ある人は遊んでばかりいる
・ある人は勉強ばかりしている
2人ともそれぞれが自分の自由意志を持って自分の時間の使い方を自由に選んでいる。
であればで、その二人の間にある結果の差は
広がり続けるのは当然です
もう1例:
コンビニに3000品目が並んでいる。
・ある商品は売れた。
・ある商品は売れなかった。
であれば、
・売れた商品は、より売れやすいように目立つ棚に陳列されて、
・売れなかった商品は、早々に片付けられてしまうので、
売れる商品と売れない商品の差が拡大し続けていくのは当たり前です。
何か、新しい商品・サービス・システム、、、が出てくるたびに、「今度こそは、全ての人が平等で幸せになれる!」と人々は1度は期待します。直近で言えば、「インターネット」という仕組みがその期待を集めました。
「人々の間にある差は、情報の格差だ。もし、情報の格差がなくなれば人々はみんな平等になれるはず。そして、インターネットは世界中の人がみんな情報に接近することができる環境を提供するのだから、インターネットこそが人々に平等を実現するはずだ!」
実際、インターネットが普及して世界中の人々の格差は小さくなったか・どうか。
なっていません。少なくても、数字上では格差は爆発的に広がりました。1年間での年収が数万円という人がいるかと思えば、資産:10兆円という人まで存在しています。「なぜ、人々を平等に導くはずのインターネットは、逆に格差を拡大させたのでしょうか?」簡単です。
「どのようにインターネットを活用するか?」を、人それぞれが自由に選んでいるから
自由とは「選択の自由」です。
インターネットいう環境をどのように活用するかが人それぞれ違います。
であれば、その「選択の自由」によってもたらされる結果は決して同じにはなりません。
必ず、人によって違う結果となります。
【平等は建前、自由が本能】
平等は与えられた前提条件ではありません。
「人は生まれながらに平等なのではなく、同じ人間だから平等であるべきだ」と頭の中で考えているだけ、です。平等であるべきなのに平等でないから何かが間違っていると考えてしまうから、他者を無意味に非難したり・批判するという非生産的な言動に至ってしまうわけです。そうではなく、
不平等が当たり前。偏りがある方が当たり前。
その不平等という前提の中で、「では、今、この時・この瞬間で目標達成に向けて、最も合理的な選択は何か?」を考え続けるわけです。「投資 対 効果」が最大になるものは何かを考え続けるわけです。そして、選び続けるわけです。自分の自由意志を持って。
人は平等であるべきという観念が合理的な判断を見えなくさせてしまいます。
過去数千年間の世界史において、ただの1度とさえ、全人類が平等であった瞬間というのはありませんでした。そしてこれからも永遠にありません。なぜなら、自由こそが本能だから。
>「歴史は絶対精神がその本質である自由を実現していく過程である」(ヘーゲル)
人が自由意志の中で、「今、この時・この瞬間に何を選択すれば、結果が最大化するか?」を選び続ける。
それぞれの人が違うものを選び続けるからこそ、得られる結果も当然に変わってきます。平等は実現しません。幻想です。実現するのは、
自由です
貴重な時間にて文章をお読みくださり感謝しています。
ありがとうございます。
それでは、また。
白坂慎太郎
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