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不幸の根本原因

白坂です、

 

不幸の根本原因

 

【結論】
14才までの記憶

もし不幸を感じながら生きているとしたら、
その根本の原因は、

14才までの記憶

です。

人は、脳が未完成の状態で生まれてきます。
ある固定した考えを持って生まれるのではなく、
生まれた環境に対応できるように白紙で生まれてきます。

白紙の脳は、生まれた環境に対応できるように
徐々に・徐々に自分なりの判断基準を創っていきます。

いわゆる自我を創っていきます。

ものすごく分かりやすいのは言語です。
日本で生まれたら日本語を、アメリカで生まれたら英語を
覚えていきます。

日本語が簡単だとか、英語が難しいとかいうことではなく、
自分が日本に生まれたから周囲の環境に対応しやすいように
脳が日本語を習得したということです。

14才くらいになると自我が確立します。

>「これが私です。」
>「私はこれが好きです。これが嫌いです。」
>「私はこれが得意です。これが苦手です。」、、、

という自分なりの判断基準が確立します。
逆の言い方をすると、14才未満だと判断基準が
確立していないので、嫌いで苦手なのに拒否できません。

嫌いで苦手なのに、親や教師などが、
>「これが将来のあなたのために必要だから」と
強要し続けたような環境にいると、

>「嫌いなことなのにやった方がいいんだ」
>「苦手なことなのにやった方がいいんだ」、、、

と錯覚してしまうのです。
こうして自我の中に強烈な

劣等感

が創られてしまいます。

本当は、親や教師の方が論理的に間違っていたのです。
実際は、嫌いなものは嫌いだと気づいた時点で辞めて良かったし、
苦手なことは苦手だと分かった時点で辞めて良かったのです。

親や教師が論理的に間違っていたのは、
単純に親や教師の中にも劣等感があったから。
なぜなら、親の親や親の教師に、同じように自我確立前に
嫌いなことや苦手なことを強制され続けていたからです。

だから、
親や教師というのは加害者でありながら被害者でもあります。
本人たちにも分からなかったのです。本人が罪を犯している
という自覚なしに罪を犯していました。

14才以降だと反抗できます。
親や教師に反抗できます。

嫌いなものは嫌いである、と。
苦手なものは苦手である、と。
やりたくないからやらない、と。

世間一般的には、中学生や高校生の反抗期は
中学生や高校生の方に問題があるようなトンデモナイ
誤解をしています。実際は、逆。親や教師の方に問題がある。

親や教師に反抗できるのは、まだ良い方。
こども自身が大事な自分自身を懸命に守れているから。

本当は親や教師の方が間違っているのに、
親や教師の言うことが納得できない自分の方が悪いんだと
こどもがこども自身を責めると最悪。

大人しい子や良い子ほど本当は悪くない自分を
悪いと攻め続けてしまう。リストカットをしたり、
自殺願望を持ったりしている子は、大人しい子や
いわゆる良い子です。

完全・完璧な人間はいません。
だから、完全完璧な大人もいません。
ゆえに、完全完璧な親や教師もいません。

子どもにとって親や教師は年長者ではありますが、
未熟な人間です。

だから、論理的に間違った指導をしてしまうのです。
本当は嫌いなことや苦手なことはする必要ないのに、
やるように強制してしまっている。本当は、

好きなことで得意なことを、たった1つをピカピカに磨き上げる

親や教師が完璧ではないのであれば、当然、子どもや生徒も
完璧ではありません。また、絶対に完璧にはなれません。
国語・社会・数学・理科・英語・体育・音楽・美術、、、
全てを完璧に出来るようにはならないのです。なのに、

>「社会も出来るんだから数学も頑張りなさい」

と言ってしまう。
子どもに対して「もっと・もっと、、、」を期待してしまう。
生徒に対して「もっと・もっと、、、」を期待してしまう。
しかも分かりにくいのが、

>「あなたのために言っている」

という態度であること。
言っている親本人・教師本人が盲信してしまっている。
だから、14才未満の自我が確立する前の子どもは、

>「親や教師が『私のために』こんなに一生懸命に
やってくれているのに出来ない自分は、何てダメな
人間なんだ」

と錯覚してしまう。
この14才未満の自我が確立するまえに持ってしまった
劣等感の記憶こそが不幸の根本原因です。

本当は、
・しなくて良かった。
・出来なくて良かった。
・指導している親や教師の側が人間として未熟だった。

単純に、
親自身・教師自身の劣等感の憂さ晴らしを

>「あなたのために一生懸命にやっている」

という、まるで表面上は愛であるかのように見える
ものすごく分かりづらいことを教育という名前の元に
やっていただけ、だった。

表面上だけの愛。
実際は、単なる

相手に期待するのは、愛のように見えて実際は愛ではありません。
こどもに期待したり・生徒に期待するのは愛ではありません。
それは、恋。完全完璧ではない子ども・生徒に対して、
完全完璧な幻想を期待している。

・親や教師が見ているのは完全完璧な姿の子ども【像】

・しかし、実際に目の前にいるのは、14才未満の未熟な子ども
だから、上手く出来ないのは当たり前。失敗するのも当たり前。

・にも関わらず、「あなたのためだ」と一生懸命に怒る。
相手が嫌いなことを強要し、苦手なことを無理矢理に
続けさせようとする。「なぜ?」

親や教師自身の中にある劣等感の憂さ晴らし

恋は愛に似ているけれど愛ではない。
恋は相手に期待する。そして、期待は感情の借金。
相手に期待すればするだけ、期待通りにならない
相手にイライラする。幻滅する。怒る。

親や教師が見ているのは、目の前にいる
ありのままの子どもではなく、自身の自我が
投影している完全完璧な子ども【像】。
つまり、幻想。幻想を見ながら教育している。

不幸の根本原因

【結論】
14才までの記憶

本当はダメでない自分を、
>「自分はダメなんだ」と思い込んでしまっている劣等感。
14才までの記憶。それが不幸の根本原因。

人は完全完璧ではない。
失敗もするし・ミスもする。

99.99%以上のものは、自分よりも他者の誰かの方が上手に出来る。
だから、幸せになるのに必要なのは、ありとあらゆるものが
全て上手になることではない。まして完全完璧である必要もない。
幸せになるのに必要なのは、たった1つだけ。

自分で自分を認め・感謝すること

恋は相手に期待する。恋は条件付き。
相手が自分の望む通りの言動を取ってくれるならば好きでいてあげる。

親が子どもの教育に熱心なのは子どものためではない。
親自身のため。親の劣等感を子どもの成功で晴らそうとしている。
「親の私はこんなに子どものためにやってあげている。」という
自己犠牲。

子どもが親の言う通りにしているうちは、親は子どもを好きでいる。
しかし、いざ子どもが親の言う通りにしなくなったら、
「子どもが間違っている。親である私が正しいことを教えてあげないと」
と、一生懸命に怒る。

怒って、子どもが再び親の言うことを聞くようになったら、
再び、好きでいてあげる。もし、子どもが親である自分の
言うことを聞かなくなったら、「うちの子は間違っている」とか、
「反抗期だ」とか、レッテルを貼る。

分かりづらいのは、
親や教師自身が、自分のやっていることが愛だと信じてしまっていること。
ヒドイ場合は、「相手のために、こんなに一生懸命に教育している自分は
何て素晴らしい親(教師)なんだ」と自分に酔ってしまっていること。

しかし、
本人がどれだけ本人の愛に酔っていたとしても、そこに本当の愛はない。
愛の対象は、目の前にいるありのままの子どもではなく、親(教師)自身の
自我が投影している完全完璧な子ども【像】。虚像。

本当の愛がないのだから、
当然、本当の人間関係もない。

・恋には一瞬で落ちる。
そして、
・恋は一瞬で醒める。

相手が自分の言うことを聞かなくなったら、「相手が間違っている」
として、途端に、

相手に対して無関心になる。

そして、
次に自分の劣等感を晴らしてくれそうな別の
恋の対象を一生懸命に探し始める。

恋は恋。
愛ではない。
親や教師は子どもに恋をしていたのかもしれないが、
そこに愛はなかった。なぜなら、愛には

相手への期待はないから

相手のありのまま。
存在そのものを丸ごと認めている。それが、本当の愛。
もし子どもに対して本当に愛があったならば、
子どもには期待しない。

子どもが好きなように・やりたいように、
ただ、やらせてあげる、だけ。

・失敗してもいい
・間違ってもいい
・ミスしてもいい、、、
なぜなら、

人は、失敗や間違いの中から成長していくものだから

こどもに失敗させないことが愛なのではない。
こどもに間違わせないことが愛なのでもない。
こどもが他者から間違わせないことが愛なのでもない。

>「いいや違います!
子どもの失敗は親の責任です!!
だから、親自身が子どもをしっかり管理して、
子どもが失敗しないようにしてあげる必要があるんです!!!」

分かりづらい。
一見、愛のように見えるから、ものすごく分かりづらい。
でも、分かりづらくても、やっぱり愛ではない。

本当の本当は、子どもが怒られて可哀想だから
子どもを管理しているのではなく、

管理不十分であると思われたくない、
親自身の自我を守るための管理

もしかしたら、
本当に、親が教師から怒られるかもしれない。
親が教師から、「もっと親がちゃんと子どもを管理して欲しい」と
言われるかもしれない。

でも、
言われて親自身が嫌な想いをしたとしたら、それは、
親自身の自我が気づいたから。完全完璧な親を演じている
自分の頑張りが認めてもらえなかったという親自身の
セルフイメージが低下したから。決して、子どもへの愛ではない。

もし、
本当に子どもへの愛があるならば、、、
子どもが学校で失敗して、間違ったことをしたことに対して、
教師が我が子を怒ったというのであれば、

教師の方が間違っていると、すぐに見抜けるはず

なぜなら、
14才未満の子どもが上手くできなかったり・失敗したり・
間違っているのは決して悪ではないのだから。単純に当たり前。

もし
生まれたばっかりの赤ちゃんが上手に歩けなかったとしても、
それは悪ではない。単純に当たり前。だったら、

・なぜ4才の子どもが失敗したら悪なのか?
・なぜ9才の子どもが失敗したら悪なのか?
・なぜ14才の子どもが失敗したら悪なのか?

怒っている教師自身は完璧なのか?
そこまで言うなら、教師は何でもミスなく・漏れなく
何でも上手に出来るのか?生徒に期待しているのと同じくらい
教師自身は凄い人なのか?

もし、
中学校の教師が専門教科として数学しか教えていないとしたら、
5教科+副教科の全てで努力している生徒の方が、何十倍も
何百倍も頑張っているのではないのか?

こどもに失敗させないことが愛なのではない。
こどもに間違わせないことが愛なのでもない。
こどもが他者から怒られないようにすることが愛なのでもない。

こどもの本当の成長には失敗や間違いが必要。

人間の脳は、失敗した時にこそ最も学ぶ。
>「同じような間違いをしないためには、
本当はどうしなければならなかったのか?」
というのを真剣に考える。学ぶ。

こどもに失敗させないというのは、
こども自身に学ばせないというのと同じ。
成長機会を奪っている。

こどもに失敗させないようにガチガチで
管理するというのは愛ではない。愛のように見える
けれど、決して愛ではない。それは恋。本当の愛に、

相手への期待はない

相手のありのまま。
存在そのものを丸ごと認めている。それが、本当の愛。
もし子どもに対して本当に愛があったならば、
子どもには期待しない。

子どもが好きなように・やりたいように、
ただ、やらせてあげる、だけ。

・失敗してもいい
・間違ってもいい
・ミスしてもいい、、、

もし、子どもがミスをしたということで、親が教師から
怒られないといけないというのであれば、
子どもの代わりに親が怒られればいいだけ。
もし子どもへの本当の愛があるならば、

未熟な教師から子どもを守るために親自身が怒られるのは造作もないこと

子どもが失敗したのは事実だったとしても、
それは悪ではない。当たり前。にも関わらず、
もし教師が怒るというのであれば、教師が未熟。

そのことが見抜けていたら、
子どもを守るために、いくらでも何回でも親が怒られればいいだけ。
そうすれば教師や学校からは信じてもらえなかったとしても、
子どもからは分かってもらえる。

どんな時も一貫して自分の味方で居続けてくれたことが子どもにも伝わるから

不幸の根本原因

【結論】
14才までの記憶

親や教師の方が正しくて、親や教師の言う通りに
出来なかった自分の方が悪かったという誤解による
劣等感こそが不幸の根本原因。実際は逆。

親や教師の中にある劣等感の憂さ晴らしを
弱い立場の子どもとして受けてしまった、というだけ。

上手に出来ないという事実と、
自分が悪いという悪という概念は全く違う。

生まれたばかりの赤ちゃんが、上手に歩けないのは
事実だったとしても決して悪ではない。当たり前。
それは、

・10才だろうが、
・20才だろうが、
・30才だろうが、

・40才だろうが、
・50才だろうが
・60才だろうが、、、

人には必ず上手に出来ないことがある。
それはたとえ事実だったとしても、悪ではない。
知識・技能、、、で解決できることであれば、
気づいた時から

1つずつ経験を増やして成長していけばいい、だけ

【存在→ 言動→ 結果】

・結果は事実によって世間から否定されることもあるかもしれない
・言動は事実によって世間から否定されることもあるかもしれない
でも、
・存在は100%、絶対的に肯定されるべき。
少なくても、

自分で自分の存在だけは100%肯定していい。

過去の失敗・間違い・過ちは、結果や言動としては良くない
ことだったのかもしれない。しかし、結果や言動の失敗は
単なる事実。決して悪ではない。未熟ゆえの当たり前。
当たり前のことが当たり前に起きただけ。そして、

失敗から学んで成長していけばいい、だけ

存在は肯定していい。100%、絶対的に。
24時間365日で、自分自身のためにこんなに頑張って
生きている自分自身という存在は、100%、絶対的に肯定していい。
それは、14才までの記憶で作られた自我を超えて、

24時間365日、心臓を動かし続けてくれている無意識の存在への肯定と感謝

その無意識の存在を、
神様・仏様・潜在意識、、、と何と呼んでもいい。
大事なのは名前ではない。14才までの記憶で作られた自我を超えて、
自分をこうやって生かし続けてくれる無意識の存在が確実に居ること。

自分の存在ありのままを認められるようになると、
他者の存在ありのままも認められるようになっていく。

自分の中に自分の心臓を24時間365日で動かし続けてくれている
無意識の存在がいるのであれば、全ての人の中にも同じように無意識の
存在がいる。今、生きている人たちは、同じ無意識の子ども。

自分が言動や結果として完全完璧にできなかったとしても、
存在そのものを100%で全肯定できるようになったら、
相手にも自然と同じ状態で接することが出来るようになっていく。

今、目の前にいる相手が何かミスをして・失敗したとしても、
それは決して悪ではない。学んでいる過程だから。成長の途上だから。
当たり前のことが当たり前に起きただけ。

不幸の根本原因

【結論】
14才までの記憶

現実的には、
もし、今でも、あなたに劣等感を与え続けている人が近くに居るならば、
物理的に距離を取ること。あなたに劣等感を与える人は、あなたを愛していない。
愛していない人と一緒に居る時間に幸せを感じることは出来ない。

まずは、
自分の居心地の良い空間を見つけること。
そして、1分・1秒でも長く、その居心地の良い空間で過ごす
時間を増やすこと。

1分・1秒、、、という「今」この瞬間から幸せな時間を過ごすこと

そうすれば、
人は誰でも、いつからでも

幸せに生きることが出来ます。

 

今回は以上です。
本日も文章をお読みくださり感謝しています。
いつも本当にありがとうございます。

 

白坂慎太郎