日産の歴史から学ぶ経営(1)
白坂です、
今回から3回にわたって、
日産の歴史から経営への学びを深めて
いきたいと思います。
【日産の歴史から学ぶ経営】
(1)ゴーン前:なぜ日産は経営危機に陥ったのか?
(2)ゴーン改革の光と影
(3)ゴーン後:今後の日産のビジョンと戦略
と言うことで、
今回は、
(1)ゴーン前:
「なぜ日産は経営危機に陥ったのか?」です。
【結論】
戦線を「急」に拡大し過ぎたから
1970年台までトヨタと日産は「両横綱」と
称されていました。
・販売のトヨタ
・技術の日産
トヨタが1位ながら日産も同じくらいの自動車台数を
販売していました。ところが、1980年代以降になって
トヨタと日産の販売台数にどんどん差が付いてきます。
トヨタの方が日本全国に販売店をたくさん持っていたから、です。
要するに、日産からすると販売力の差を技術力では埋められなく
なっていました。
しかも、
1985年に外部環境に大きな変化があります。
「プラザ合意」です。その後、急激な円高ドル安に
なっていきます。円高は輸出に不利。そこで、
トヨタも日産ともに、海外での現地生産に乗り出します。
要するに、日本で製造して海外に輸出をするのではなく、
海外の現地で生産して海外で販売するという戦略への
切り替えです。
ただし、
トヨタと日産では、この現地生産の進め方が違いました。
トヨタは、まずはアメリカでの現地生産に集中しました。
しかも、いきなり自分たちだけで生産するのではなく、
アメリカのGM(ゼネラル・モーターズ)との合弁会社を
作った上で始めました。つまり、慎重に・小さく始めました。
一方、
日産は、「全世界での販売台数を10%にする!」という
壮大なビジョンを掲げました。そして、一気に、
アメリカ・メキシコ・オーストラリア・イギリス・スペインと
何と5か国での現地生産に挑戦し始めてしまいます。
結果、
アメリカ以外の、メキシコ・オーストラリア・イギリス・スペインの
4か国で大苦戦をします。4か国でどんどん・どんどん赤字が
膨らんでいってしまいます。
その赤字を、日本国内の日産本体が銀行から借り入れをした上で、
資金を海外に送り続けるという資金繰りを強いられます。
1985年から1999年までの15年間における
日産の経営失敗は、まるで1931年から1945年に
おける15年戦争における日本軍の失敗ソックリだったと
言えます。
・戦線拡大
↓
・投入できる資源に対して戦線が広がり過ぎる
↓
・各地で十分な補給を受けられず、途中から連戦・連敗へ、、、
日本軍は日中戦争において中国との戦争で決着を
付けられないまま、戦線を東南アジア、そして
アメリカとの太平洋戦争、、、へと突き進んでしまいます。
そして、
ミッドウェイ開戦での敗戦以降は、勝ち目のない戦いを
4年近く続けてしまうことになりました。
日産もソックリでした。
海外での現地生産となると、「言語の違い」「法律の違い」
「文化の違い」、、、など数多くの違いがある中で製造です。
メキシコ・オーストラリア・イギリス・スペイン、、、の
それぞれの現地で日産の現場社員が懸命に頑張っても
政治情勢や法律などが関係していたら、現場ではどうにもなりません。
海外5か国における一気の現地生産開始という経営判断は
経営陣による戦略決定の失敗でした。なので、本来ならば
5か国中4か国は、一旦、全面撤退をして日本本体における
被害の最小化を図るべきでした。
しかし、
当時の経営陣は、「全世界でシェア10%を獲る!」という
壮大なビジョンだけを見てしまっていました。だから、
本来は戦略レベルの失敗なのに、努力・根性・気合、、、という
精神論での勝利を目指し続けてしまっていました。
海外での現地生産は大苦戦。
その間、日本の日産では、
労使紛争
ここも旧日本軍とソックリでした。
本来は、一致団結して強い敵と戦わなければならない状況なのに、
外の敵に勝てない状況で、まさかの内輪揉めです。
旧日本軍が陸軍と海軍で対立して協力しなくなっていたのと同じように、
当時の日産では労働組合とそのトップが経営陣と対立して、
一つの会社の中に2つの権力構造が出来てしまっていました。
・各国での現地は大苦戦
↓
・日本の日産本体は借入金で各国に資金注入
↓
・結果、、、、有利子負債2兆円で
経営破綻寸前まで追い込まれてしまっていました。
おまけに、
日産がルノーに事実上で救済されることになった
1999年は、時代も悪かったと言えます。
バブルが崩壊していて、山一證券や北海道拓殖銀行など
大手の金融機関が破綻した頃でした。つまり、
銀行からの借り換えをしにくい時代だった
当時、日産の資金繰りとして約5000億円が足りない
状況でした。2兆円の有利子負債というよりは、とりあえず
目の前の5000億円を調達しなければならない状況でした。
もし、
バブル期であれば、5000億円は銀行からの借り換えで
乗り切れたかもしれません。しかし、バブル崩壊後の当時は
借り換えが難しくなっていました。そこで、万事休す。
自分たちより小さなルノーに事実上、約6000億円で
救済されることになります。
(1)ゴーン前:
「なぜ日産は経営危機に陥ったのか?」です。
【結論】
戦線を「急」に拡大し過ぎたから
壮大なビジョンである「全世界でシェア10%!」というのは
決して間違っていなかったと思います。経営とは夢の追求です。
大きな夢を描いて、その大きな夢実現に向かってこそ、人は
やる気を持てます。
だから、
当時の経営陣が発表した壮大なビジョンそのものは良かったの
だと思います。失敗したのはビジョンではなく戦略です。
ビジョン達成を急ぎ過ぎた
トヨタは、海外での現地生産を小さく始めました。
日本国内の販売で圧倒的1位で、かつ財務体質で万全のトヨタは
逆に小さく始めたのです。まさに「小さく産んで大きく育てよう」と
しました。
・ビジョンは大きく
↓
・しかし、最初の第1歩は小さく
↓
・急がば回れで、まずは小さくても完璧な仕組みを創ること
完成度の高いシステムを複製するのは簡単。
大事なのは拡張を急がずに、拡張するに値する
完成度の高い仕組みを、まず1つしっかり創ること。
日産の場合、
・壮大なビジョンを
↓
・一気に達成しようとしたために
↓
・大失敗の末に、本体そのものまで大きく傷ついてしまった。
と言うことで、
(1)ゴーン前:
「なぜ日産は経営危機に陥ったのか?」です。
【結論】
戦線を「急」に拡大し過ぎたから
有利子負債2兆円。
しかも、当面5000億円の資金繰りが必要、、、
日産は自力で再建が不能と思われる状況まで追い込まれていました。
そこに、まるで黒船のように、
ルノーからカルロス・ゴーン氏が日産にやって来ました。。。
【日産の歴史から学ぶ経営】
(1)ゴーン前:なぜ日産は経営危機に陥ったのか?
(2)ゴーン改革の光と影
(3)ゴーン後:今後の日産のビジョンと戦略
今回は以上です。
本日も文章をお読みくださり感謝しています。
いつも本当にありがとうございます。
白坂慎太郎