人を見下す心理とは?
白坂です、
文章のご確認、感謝しています。
ありがとうございます。
まず、
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さて、
いただいたメッセージを1通、、、
>「白坂さんの動画に出会ってから自分で考える習慣を持つようになり、色々な面で救われました。私は巷に溢れる情報量の多さに疲れ果てていました。
自身も含めて、炎天下の砂漠の中で情報を渇望するお化けの様に感じていました。心理学・経営学・経済学を動画で学び、自分で考えることで私なりに、人生は感情をいかにコントロールしていくかが重要だと感じました。
まだまだ自分の意志よりも感情が勝つ事ばかりですが、少なくとも以前よりは感情を知識でコントロールする事が出来るようになりました。これまで学習してきた知識を材料として、考える習慣を継続していきたいと思います。
質問なのですが、白坂さんは『人が他人を無意識に見下す(人種差別含む)行為』『見下す事で安心を得る行為』をどの様にお考えになってるかお伺いしたいです。私なりにですが、色々な面で満たされてない時にそうゆう風になってしまう時があります。たくさんの情報を集めて『あの人よりはマシかも』と考えてしまってる時があります。
長文になりましたが、言葉では表現する事が出来ないくらいに感謝している事を伝えたかったです。ありがとうございます。」
メッセージをお送りくださり感謝しております。
こちらこそ、ありがとうございます。
ご質問にお答えさせていただきます。
まずは、「心理」と「行為」をはっきりと切り分けて考えることが大事だと思います。
すなわち、
・人を見下す心理
と
・人を見下す行為
です。
過程としては、
【心理→ 言葉→ 行為】という順番になります。
・まずは心で感じる
↓
・次に脳内で言語化する
↓
・最後に実際に行動に移す
ということになります。
ご質問は、「『人を見下す行為』について白坂はどう思うか?」ということになりますので、行為としては良くないと思います。実際に人を見下す行為を取るというのはやはり良くないとしか言えません。
ただ、行為ではなく心理であれば話は違ってきます。
「人を見下す行為」は良くないことですが、「人を見下す心理」であれば、
やむを得ない
と思います。
人は生きている限り、「人を見下す心理」を完全に消すことは出来ません。
なぜなら、「人を見下したい」という心理は、「人より上に行きたい」という心理であり、それは、
人の生まれながらの本能だから
です。
人は論理的には矛盾した2つの価値観を同時に持っています。すなわち、「平等」と「自由」です。
・人は生まれながらに平等である
・人は生まれながらに自由である
日本語としてはサラッと読める文章ですが、実は、この2つは両立しません。
平等を実現しようとすれば、みんなが同じ結果を得続けることしか実現方法がありません。なので、人が成功を目指して競争する自由がなくなります。逆に、人が成功を目指して競争すれば、必ず、勝者と敗者の両方に分かれますので、結果に差がつきます。つまり平等ではなくなります。
競争がなくなれば進化成長もなくなる
人が「進化成長したい」という欲求を持っているというのは、言い方を変えれば、人は「他人よりも上に行きたいという」欲求を持っているということです。他人よりも上に行きたいと思うからこそ、他人と競争しながら成功を目指しているわけです。
もし、「他人よりも上に行きたい」という欲求がなくなったとしたら、競争がなくなるので平等は実現するかもしれませんが、その代わり進化成長もなくなります。みんなが等しく「やる気」がなくなり、みんなが等しく貧しくなります。みんなが等しく貧しい中で我慢し続ける状態になります。それは
社会主義が崩壊したことで歴史が証明しています
「旧:西ドイツ」と「旧:東ドイツ」、または「韓国」と「北朝鮮」、、、などは、元々同じ国で同じ民族の人たちでしたが、第2次世界大戦後に、「資本主義」と「社会主義」とに体制が分かれました。その後の数十年間で、両国がどのようになっていたか、、、をわたしたちは知っています。
社会主義はみんなが平等であるというのを重視した考え方ですが、そうするとみんなが「やる気」を失い、国民全体が等しく貧しくなってしまうのです。
歴史とは、人々が平等から自由を実現していこうとする過程
日本で言えば、今から1万2千年前の縄文時代の人たちが、最も平等でした。
1頭のナウマン象をみんなで協力して倒し、倒したナウマン象の肉をみんなで平等で分け合いながら暮らしていました。当時の縄文人たちは、たった一人では生きていくことができない状況下にありました。なので、みんなが協力するのは当たり前で、その協力で得られた結果をみんなで平等に分けるのも当たり前だったわけです。
平等から始まった人類の歴史。その歴史の進展とともに、人はどんどん自分一人でも出来る能力を環境とともに拡張し続けています。もし縄文人たちが歴史上で最も平等の社会を生きていたというのであれば、今のわたしたち現代人が最も自由な社
会を生きているといって良いでしょう。なぜなら、歴史とは、人々が平等から自由を実現していこうとする過程であり、
人は他人との自由競争の中で進化成長をし続けたいという本能を持っているから
「人を見下したい」というのは「人よりも上に行きたい」という心理と同じです。
つまり本能です。それこそ生まれながらに持っています。後天的に教育によって与えられたものではありません。だから、生きている限り「人よりも上に行きたい」という本能はなくならず、結果、「人を見下したい」という心理も完全になくなることはありません。だから、人を見下す心理は
やむを得ない
ということです。
ただ、人はみんな同じ人間です。人は「みんな等しく平等であるべき」という論理もまた、みんなが等しく持っている共通の価値観です。平等という価値観からして、人を見下すという実際の「行為」はやはり望まれるものではありません。だから、
人を見下す心理はやむを得ないけれど、人を実際に見下す行為は良くない
ということになります。
そこで、制御ということになるわけです。
・人は人を見下したいという本能を持っている
↓
・だから、どうしても人を見下したいという衝動が湧き上がってくる
↓
・では、衝動が湧き上がってきたからといって、「本当に人を見下すという行為を取るのか・どうか?」
実際に行為を取るのであれば、こどもです。
その人が30才だろうが、40才だろうが、50才、、、だろうが、「私はこうしたいと思ったから、実際にしたんです」というのであれば、こどもです。
もし大人だというのであれば、「私はこうしたいという衝動が湧き上がっては来たのだけど、それを実際にやるのは良くないと思ったので、実際の行為としてはしませんでした。」ということが出来てこそ大人です。そして、その制御が出来るか・どうかというのに関わっているのが、
言葉
【心理→ 言葉→ 行為】という順番からして、
・まずは心で感じる
↓
・次に脳内で言語化する
↓
・最後に実際に行動に移す
人は心の中で感じたことを、一旦、脳内で言語化します。
その時に、湧き上がってきた衝動を「実際の行動に移した方が良いのか・それとも移さない方が良いのか」を考えます。もし、心の底から湧き上がってきた衝動を実際に制御できるか・どうかは脳にかかっています。だからこそ、
脳を鍛えれば鍛えるほど制御できる力も上がる
実際に自分の頭で考える習慣を付けていくこと。
単に、「昔からの風習でこうだから」とか、「伝統としてこうだだから」とか、「常識としてこうだから」とか、、、に自分もそのまま従うのではなく、
「なぜ、それが良いのか?」
「本当に、それが良いのか?」
「どうして、それが良いのか?」、、、
を、自分の頭で徹底的に考える習慣を身につけていきます。
そうすると、脳が鍛えられていきますから、
感情を制御する力を向上させていくことが出来ています
貴重な時間にて文章をお読みくださり感謝しています。
ありがとうございます。
それでは、また。
白坂慎太郎
追伸:
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