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成長し続ける方法

白坂です、

 

生きている限りずっと
成長し続ける方法

 

【結論】
出会った人全てを教師だと解釈する

人は、生きている限り成長し続けます。
生まれたばかりの赤ちゃんが最も未熟で、
亡くなる時が最も成熟しています。

人間は成長する方が当たり前。
だから、人生も良くなる方が当たり前です。

ただ、
成長というのは、人間の「総合力」として成長し続けます。
必ずしも、ある個別の特定の分野・特定の能力が
成長し続けるというわけではありません。

人間の総合力というのは、
「身体」「脳」「心」3つの総合力です。

「身体能力(PQ)」と「知的能力(IQ)」と「精神能力(SQ)」と
言い換えてもいいでしょう。

人は生きている限り成長し続けます。
ただし、ある特定の分野・特定の技能が成長し続けるわけでは
ありません。残念ながら衰えていく能力もあります。

目に見えて最も分かりやすいのは「身体」でしょう。

スポーツなどで最も活躍しているのは10代後半から
20代の選手。30代であれば過去の経験で現役を
続けられているかもしれませんが、40代以降は、
引退を考えなければならなくなっていきます。

だから、
もし人が成長し続ける対象というのが身体に限定したら
残念ながら人は成長し続けることは出来ないということに
なります。むしろ、衰えていく方が自然ということになります。

ゆえに、
人間が成長し続けるというのは、あくまで
人間における【総合力】においてです。

もし成長を特定の分野に限定せずに【総合力】
だとしたら、人は生きている限り成長し続けます。
だから、人生も基本、良くなり続ける方が当たり前です。

もし、
・人は成長し続ける方が当たり前で、
・人生は良くなり続ける方が当たり前なのに、
当たり前が当たり前になっていなかったとしたら、

何かがオカシイ

と気づく必要があります。
自分なりに一生懸命に考えて選択し続けた結果が
良くなっていないとしたら、

その判断基準になっている固定観念がオカシイ

と自我を疑う必要が出てきます。
たとえば、

・「A」と「B」という2つの選択肢があって、
・自分なりに一生懸命に考えた結果、「A」という選択肢を選んだら
・良くなるはずの結果が良くならなかった

としたら、
では、「なぜ自分は『A』という選択肢が良いと考えたのか?」
という自我を疑う必要が出てきます。

もし、
この原因の大元である自我を疑うことなしに、

>「あ、『A』は良くなかったんだ!
では次から『B』を選ぶように気をつけよう!!」

程度だと、
次も、やっぱり「A」を選んでしまいます。

それは、まるでパソコンに「A」という文字を入力してあるのを
放置したままで、プリンター経由で印字された「A」という文字を
修正液で訂正しているようなものだから、です。

>「あれ、また『A』と印刷された紙が印刷されきてしまった!
オカシイなぁ、、、この前、確かに修正液で『B』と
書き直したはずなのに。。。」

大元のパソコンデータの方を書き直していない。。。

【思考→ 言動→ 結果】

出てきた結果に対して言動の修正だけをかけても、
大元の思考が変わっていないと、また同じような言動を取り、
同じような結果を得続けてしまう。。。

修正をかけるべきは目に見える言動ではなく、
言動を生み出している思考。自我そのもの。

自我は先天性のものではありません。
他人の言動を脳が入力として受信をして、
長期記憶として蓄積したものが自我です。

つまり、
もし、大元である自我そのものに修正をかけようと
思ったならば、

自我の形成に大きな影響を与えた人たちを思い浮かべる必要がある

なぜ、
「A」と判断した方が良いという自我が作られたのか?
誰のどのような言動に影響を受けて、自我が作られたのか?、、、

生きている限りずっと
成長し続ける方法

【結論】
出会った人全てを教師だと解釈する

他者は必ずしも自分を幸せにしてくれるために
存在しているわけではありません。他者が責任を
持っているのはあなたの幸せではありません。
他者自身の人生に対してです。

人はどんな人も自分自身を幸せにするために一生懸命に生きている

全ての人が
それぞれの人生における物語の主人公。
作品は、

「私」と「私以外の人たち」による成功と幸せ物語

主演 :私
脇役 :他者全員

今、目の前に何らかの光景が見えるというのであれば、
自分が世界の中心として視界が広がっています。

今、周囲から何らかの音が聞こえるというのであれば、
自分を中心とした周囲から音が聞こえています。

自分にとっては他者は、自分を中心として
認識している存在。と言うことは、相手にとっての自分は、
他者を中心として認識している他者の一人です。

人は、
自分を中心に五感で他者を認識しているがゆえに、
他者は自分を幸せにしてくれるために存在していると
錯覚しながら生きています。

まるで、自分が寝ていたら周囲の人が自分に
授乳してくれて、オムツを変えてくれるかのように
錯覚しながら生きています。

もし、
自分の脳内で繰り広げられている物語が、
「私」と「私以外の人たち」による物語なのであれば、

相手の脳内で広げられている物語も、
「相手自身」と「自分を含めた他者全員」による物語です。

だから、
相手は自分を幸せにするために存在しているわけではありません。

他者は他者自身を幸せにするために一生懸命に生きています。
それは、自分が自分を幸せにするために一生懸命に生きているのと
全く同じです。

自我は錯覚しているのです。
「あの人の言動は、私を幸せにしてくれるためのものだったのだ」、と。

もし、
成長し続けるためには、自我というのは1度、確立して終わりではなく、
目の前の課題を解決するために、何度も・何度も創り変え続けていく
必要があります。

分かりやすく例を上げるならば、
15歳の時の中学3年生の課題を解決するためには、
15歳の自我で解決できるかもしれません。

しかし、30歳の時の課題は、15歳の自我では解決できないかもしれません。
もし求められている判断が本当は「B」であるかもしれないのに、
15歳の時に作った自我には「Aこそが正しい」と書き込まれていたら
ずっと「A」という言動を選択し続けることになるので、課題を解決できません。

つまり、
過去の記憶で作った自我によって同じ判断をし続ける限り、
目の前の課題を解決できないので、そこで、その人の成長は
止まることになります。だから、

生きている限りずっと
成長し続ける方法

【結論】
出会った人全てを教師だと解釈する

「なぜ、『A』という言動を取り続けて、いつも・いつも
上手く行かないのか?」

脳内の自我は、

>「相手が間違っていて自分が正しい」
>「相手がいつか自分の正しさに気づいてくれる時が来る」
>「だから、諦めずにこれからも『A』を一貫して主張し続けよう」

と思考するかもしれません。

まるで押しても決して開かない扉を、今日もまた過去と同じように
押し続けるかもしれません。自我は押すのを辞めて引いた方が良いとは
気づかないかもしれません。

もしくは、
あまりに何回も同じような上手く行かないことが続くために、
『A』ではなく、もしかしたら『B』を選んだ方が良かったのでは、と
思いながら、次も、やっぱり『A』を選び続けるかもしれません。

大元の自我に書き込まれているデータはそのままで、
今後も、印刷された紙という結果を見て、修正液で
修正をし続けるかもしれません。なぜなら、自我は、

・「私」と「私以外」と分けるのが好きで
・「自分が正しくて」「自分以外が間違っている」と正当化が好きで
・「常に同じ言動を取り続けるのが正しい」という一貫性が好きだから、です。

脳内に
1度、造られた自我は、記憶による幻想なのですが、
まるで実態物であるかのように脳内を思考と感情で
占領しています。

だから、
・自我が正当化によって自我そのものが肥大化するのを好み
・自我に疑問をもって自我そのものが小さくなるのを恐れています。

自我が小さくなりそうな時に、不安や恐怖が湧き上がって、
自我は自我そのものを懸命に防衛しようと抵抗します

ここに錯覚があるのです。
「自我=本当の自分」という錯覚です。

だから、
自我が小さくなったら、まるで自分自身も小さくなったと錯覚し、
万が一、
自我が消滅したら、まるで自分自身も消滅してしまうかのような
錯覚があります。ゆえに、

自我に疑問を感じると、不安や恐怖という感情が湧き上がってきてしまう

でも、
実際は、自我というのは後天的な人工物。
生まれながらの先天性のものではありません。

赤ちゃんは自我がないのに、元気があって
エネルギーいっぱいで生まれて・育っていきます。
成長していきます。つまり、錯覚は錯覚。幻想は幻想。

実際は、
自我が消滅しても自分は全く消滅しません。
単に、

ありのままの社会を認識できるようになる、だけ

自我という
フィルターを抜いた社会を認識できるようになります。

「A」を選択したら上手く行かず、
「B」を選択したら上手く行く、、、という
【ありのまま】が見えてくる、だけ、です。

そこに、
「誰が間違っていて・誰が正しくて」という二面性もなければ、
「過去の自分の言動と一致しているか・どうか」というコダワリも
なくなっています。

生きている限りずっと
成長し続ける方法

【結論】
出会った人全てを教師だと解釈する

以前14歳までで1度作った自我で何歳までの課題が解決できるのか?
解決できている間は、解決していけばいい。課題解決によって
人は成長し続けることができますから。

ただ、
もし、30歳・40歳・50歳、、、と歩み続けていくなかで、
明らかに課題が解決できなくなったら、、、同じような課題を
何度も何度も体験していると気づけたならば、

判断基準になっている自我そのものに疑問を当てる必要がある

それは、
「何で造られた自我なのか?」という大元への気づきが必要になります。

他者は必ずしも自分を幸せにするために言動を取っていたわけではありません。
他者は他者自身を幸せにするために言動を取っています。それは、
自分が自分を幸せにするために言動を取っているのと全く同じです。

だから、
「他者が自分を幸せにするためにしてくれていた」という前提で
考えたら不合理なことでも、「他者が他者自身を幸せにするために
していた」と考えたら極めて合理的であったことも見えてきます。

つまり、
他者は、自分を幸せにしてくれるための救済者ではなく、

気づきを与えてくれる教師

なのです。

「なぜ、自分はいつも・いつも『A』を選択し続けるのか?」

「それは、自分の脳内に『Aこそ正しい』と考えている
自我が存在しているから」

「では、その『Aこそ正しい』と信じ込んでいる自我は
誰のどのような言動によって造られたものなのか?」、、、

もし、自我が変われば、認識が変わります。
今まで向けていた焦点が変わります。
視覚や聴覚というカメラのレンズを今までとは違う方角に
向けることになります。だから、

解決できなかった課題への解決法を新たに気づけるようになります

・30代の課題を解決するには、解決するための新たな自我を必要とし、
・40代の課題を解決するには、解決するための新たな自我を必要とし、
・50代の課題を解決するには、解決するための新たな自我を必要とする、、、

新しい自我というのは、
今までの自我の強化という意味ではありません。
まして、肥大化とはむしろ全く逆です。

むしろ、自我の極小化。
必要なだけ求めて・必要以上は求めないという最小限の自我。
自我が小さくなれば・なるだけ、

今までは自我で見えなくなっていた広大な社会から課題を解決できるようになる

よって、
生きている限りずっと
成長し続ける方法

【結論】
出会った人全てを教師だと解釈する

もし衰退するものがあるとしたら
老化による身体など、あくまで自分の一部、だけ。

心など精神能力(SQ)を含めた【総合力】は
成長し続ける方が当たり前。当然、人生も良くなり続ける
方が当たり前。その当たり前が当たり前になっていなかったら

何かがオカシイ

と疑問を持つこと。

今までの人生を選んできた判断基準である自我に
疑問を持つこと。そのために、今までに出会った人全てを
気づきを与えてくれる教師だと解釈すること。

自我に気づきの光を当てて、
自我が小さくなれば・なるだけ、自我によって
見えなくなっていた広大な社会が認識できるようになっていきます。

そして、、
今まで解決できなかった課題の解決法を見つけられるようにも
なっていきます。結果、生きている限り

ずっと成長し続けることができています。

 

今回は以上です。
本日も文章をお読みくださり感謝しています。
いつも本当にありがとうございます。

 

白坂慎太郎